誰と何を語ろうていた。それを真っ直ぐに言うまいか」
兼輔はいよいようろたえた。彼は笑い出したいような嬉しさを感じながらも、一方にはくすぐられるような苦しさをも覚えた。いっそ言おうか言うまいかと迷いながら、彼は相手を焦《じ》らすように空うそぶいた。
「そりゃ人違いであろう。われらは昼間からこの座を一寸も動いたことはござらぬ」
「いや、そりゃ嘘じゃ」
女房たちは三方から彼を取りまいて、口をそろえて燕《つばめ》のようにさえずった。
「昼間は勿論のこと、日が暮れてからも庭先きをうろうろと……。現に今もここをぬけ出そうとせられたところじゃ」
「それ見い」と、実雅は鼻の下の薄い髭をこすって又睨んだ。「それでもお身にうしろ暗いことがないというか」
「いかに責められても、知らぬことは知らぬのじゃ」と、兼輔は笑いながら席をはずして立とうとすると、女房たちの白い手は右ひだりから彼の袂や裳《もすそ》にからみついた。
「いや、逃がさぬ、今度はわたしたちが詮議する。さあ、誰と語ろうてござった。それを聞こう。それを打ち明けられい」
妬み半分と面白半分とで、女たちは鉄漿黒《かねぐろ》の口々から甲高《かんだか》の声々をいよいよ姦《かしま》しくほとばしらせた。かれらは兼輔の晴れの直衣をあたら揉み苦茶にするほどに、袖や袂を遠慮なしに掴んで小突きまわして、さあ白状しろと責めさいなんだ。女の袖に焚きしめた香の匂いや、髪の匂いや油の匂いや、それが一緒に乱れて流れて、女の匂いに馴れていた兼輔ももうむせ返りそうになってきた。
彼が眼鼻を一つにして苦しんでいるのを、実雅はいよいよ妬《ねた》げに睨んでいたが、ふと気がついたように庭先きへ眼をやった。
「ほう。えらい嵐になった」
まことに凄まじい嵐であった。おぼろ月はそれに吹き消されたように光りを隠して、闇をゆるがすような嵐の音がどうどうと聞こえた。花に嵐は珍しくないが、これまた疾風《はやて》のような怖ろしい勢いで、山じゅうの桜を一度に落とそうとするらしかった。鞍馬の天狗倒しがここまで吹き寄せかとも思われて、座敷じゅうの笑い声は俄にやんだ。女たちは顔を掩って俯伏した。嵐は座敷の内へもどっと吹き込んで、あらん限りのともし灯を奪ってゆくように、片端からみな打ち消してしまった。
真っ暗ななかで男たちは息をのんだ。女たちはおもわず泣き声をあげた。外の嵐はまだ吹きつづけて、黒い雲のひとかたまりが家根の上へ低く舞いさがってきた。人間の限りない歓楽を天狗が妬んで、人も家も一緒につかんで眼の前の谷底へ投げ込もうとするのではないかとも恐れられた。そのなかでも心のきいた老人は呼んだ。
「ともかくも燈火《あかし》を早う。灯をともせ」
その声は嵐に吹き消されて遠くきこえなかった。給仕に侍《はべ》っている関白家の家来も、女も、あまりの怖ろしさに席を動くことが出来なかった。なにがしの大将、なにがしの少将も、この物凄い敵の前には言い甲斐もなく怖れ伏してしまった。実雅も勿論その一人であった。
「おびただしい嵐じゃのう」
忠通は表の闇を透かし視てつぶやいた。彼は玉藻を連れて丁度今ここへ出て来たのであった。清治も袖で烏帽子をおさえながら不安らしく言った。
「まことに怖ろしい嵐でござりまする。どこもかしこも真の闇になり申した」
「暗うてはどうもならぬ。早う燈火《あかし》を持て」
「はあ」
清治はうけたまわって引っ返そうとすると、またひとしきり強い嵐が足をすくうように吹き寄せて来て、彼は野分《のわき》になぎ伏せられたすすきのように両膝を折って倒れた。忠通も危うく倒れかかって、扇で顔を掩いながら苛《いら》だった。
「燈火を……燈火を……。早うせい」
この途端に座敷は月夜のように明るくなった。時ならぬ稲妻かと見ると、その光りはいつまでも消えなかった。忠通が倚りかかっている襖《ふすま》の絵も、そこらに取り散らしてある杯盤《はいばん》の数かずも、おどろいて眺めている人びとの衣の色も、皆あざやかに映し出された。
闇を照らすこの不思議のひかりは、玉藻のからだからほとばしったのであった。彼女は後光《ごこう》を背負う仏陀のように、赫灼《かくしゃく》たる光明にあたりを輝かして立っていた。
法性寺《ほっしょうじ》
一
「ふむう。頼長めが……。確《しか》と左様なことを申したか」
関白忠通は二日酔いらしい蒼ざめたひたいの上に蒼い筋を太くうねらせて、扇を膝にきっと突き立てたままで、自分の眼の前に泣き伏している艶女《たおやめ》の訴えをじっと聞き済ましていた。花の宴《うたげ》のあくる日で、ゆうべから酔いこけた賓客《まろうど》たちも日の高い頃にだんだん退散して、あるじの軽いしわぶきも遠い亭まできこえるほどに、広い別荘のうちもひっそりと静まっていた。すさまじい夜嵐の名残りで、庭は見渡すかぎり一面に白い花びらを散り敷いていた。
「神ほとけも見そなわせ、わたくし誓って偽りは申し上げませぬ」と、玉藻は涙ぐんだ美しい眼をあげて、主人の顔色をぬすむようにうかがった。
「日ごろから器量自慢の頼長めじゃ。それほどのこと言い兼ねまい」
忠通はわざと落ち着いた声で言った。しかもその語尾は抑え切れない憤恚《いかり》にふるえているのが、玉藻にはよく判っているらしかった。二人の話はしばらく途切れた。
忠通もゆうべはこの別荘に酔い伏して、賓客たちが大方退散した頃にようように重い頭を起こしたのであった。酔いのまだ醒めない彼は、玉藻の給仕で少しばかりの粥をすすって、香炉に匂いの高い香をたかせて、その匂いを快《こころよ》く嗅ぎながら再びうとうとと夢心地になろうとする時、彼は玉藻にその夢を揺すられて、思いも寄らない訴えを聞かされた。それは花の宴もたけなわなるきのうの夕方の出来事で、玉藻が川端に立って散り浮く花をながめていると、そこへ主人の弟の左大臣頼長が来た。彼は酔っているらしく見えなかったが、玉藻をとらえてざれごとを二つ三つ言った。相手は主人の弟で、殿上でも当時ならぶ方のない頼長である。さすがに情《すげ》なく突き放して逃げるわけにもいかないので、玉藻もよいほどにあしらっていると、頼長はいよいよ図に乗って、ほとんど手籠めにも仕兼ねまじいほどのみだらな振舞いに及んだ。
「それだけならば、わたくし一人のこと、どのようにも堪忍もなりまするが……」と、玉藻は口惜し涙をすすり込むようにして訴えた。
彼女に対して無礼を働いたばかりでなく、頼長は誇り顔《が》に、こんなことを口走ったというのである。兄の忠通は天下の宰相たるべき器《うつわ》でない。彼は単に一個の柔弱な歌詠みに過ぎない。今でこそ氏《うじ》の長者などと誇っているが、やがてはこの頼長に蹴落とされて、天下の権勢を奪わるるのは知れてある。彼の建立《こんりゅう》した法性寺は、彼自身が最後のかくれ家であろう。そのように影のうすい兄忠通に奉仕していて何となる。立ち寄らば大樹の蔭という諺もあるに、なぜおれの心に従わぬぞ。兄を見捨てよ、おれに靡《なび》けと、頼長は聞くに堪えないような侮蔑と呪詛《じゅそ》とを兄の上に投げ付けて、しいて玉藻を自分の手にもぎ取ろうとしたのであった。
仲のよい兄弟のあいだでも、これだけの訴えを聞けば決していい心持はしない。まして忠通と頼長とはその性格の相違から、うわべはともあれ、内心はたがいに睦まじい仲ではなかった。頼長が兄を文弱と軽しめていることは、忠通の耳に薄々洩れきこえていた。自分が氏の長者となったに就いては、器量自慢の頼長が或いは妬んでいるかもしれないという邪推もあった。きのうの饗宴にもすねたような風をみせて、碌々に興も尽くさずに中座したということも、忠通としては面白くなかった。それらの事情が畳まっているところへ、寵愛の玉藻からこの訴えを聞いたのである。忠通はもうそれを疑う余地はなかった。
「憎い奴」
彼は腹のなかで弟を罵った。酔いの醒めない頭はぐらぐらして、烏帽子を着ているに堪えないほどに重くなってきた。現在の兄を蹴落としておのれがその位に押し直ろうとする、それが免しがたい第一の罪である。兄が寵愛の女を奪っておのれが心のままにしようとする、それが免しがたい第二の罪である。自体が温和な人でも、この憤りをおさえるのは余程むずかしそうに思われるのに、ましてこの頃はだんだんに志がおごって、疳癖《かんぺき》の募ってきたのが著しく眼に立つ折柄《おりから》である。忠通の胸は憤怒《ふんぬ》に焼けただれた。しかし彼が現在の位地《いち》として、さすがに一人の侍女《こしもと》の訴えを楯にして表向きに頼長を取りひしぐわけにもいかないのを知っているので、彼はあふるるばかりの無念をこらえて、しばらく時節を待つよりほかはなかった。
やがて彼は玉藻をなだめるように言った。
「頼長めの憎いは重々じゃが、氏の長者ともあるべき我々が兄弟《けいてい》墻《かき》にせめぐは頼長のきこえが忌々《いまいま》しい。そちをなぶったも酒席の戯れじゃと思うて堪忍せい。予もしばらくはこらえて、彼が本心を見届けようぞ」
玉藻をなだめるのは彼自身をなだめるのである。忠通はしいて寂しい笑顔をつくって、うつむいている女の黒髪を眺めていた。
「わたくしの堪忍はどのようにも致しまする。ただ、左大臣殿が、かりにも上《かみ》を凌ぐようなおん企てを懐かせられまするようなれば……」
「いや、その懸念は無用じゃ。彼は予を文弱と侮っているとか申すが、忠通は藤原氏の長者じゃ。忠通は関白じゃ。彼らがいかにあせり狂うたとて、予を傾けようなどとは及ばぬことじゃ。なんの彼らが……」
忠通は調子のはずれた神経的の声を立てた。そうして、鬢《びん》の毛でも掻きむしりたいように、両手で烏帽子のふちをおさえて頭を二、三度強くふった。その神経のだんだんに昂奮して来るのを、玉藻はいたましそうな眼をしてそっと窺っていたが、いつかその眼から白いしずくがはらはらとこぼれてきた。
「はて、なにを泣く。まだ堪忍がならぬか」と、忠通は彼女の涙に眼をつけて叱るように言った。
「唯今も申す通り、わたくしの堪忍はどのようにも致しまするが……」
「もう言うな。予のことは予に思案がある。その懸念には及ばぬことじゃ」
顔の色はいよいよ蒼ざめて、忠通の眼の奥には決心の光りがひらめいた。
「但しこのことを余人に洩らすなよ」
「はあ」
二人は再び眼をみあわせた。ゆうべに引き替えて、きょうはそより[#「そより」に傍点]とも風の吹かない日であった。散り残った花が時どきに静かに落ちて、どこやらで鶯の声がきこえた。
その日の午《ひる》過ぎに、忠通は桂の里から屋形へ帰った。きのうの接待に疲れたといって、彼は人払いをしてひと間に引き籠っていたが、点燈《ひともし》ごろになって少納言信西を召された。大方はいつもの歌物語であろうと気を許して、信西入道はゆるゆると支度して伺候すると、忠通は待ちかねたように彼を呼び入れて出逢った。入道がきのうの不参の詫びをしているのを耳にも入れないで、忠通は唐突《とうとつ》に言い出した。
「早速じゃが、入道。頼長はこの頃もお身のもとへ出入りするかな」
「折りおりに見られまする」
「学問はいよいよ上達するか」
「驚くばかりの御上達で、この頃ではいずれが師匠やら弟子やら、信西|甚《はなは》だ面目もござりませぬ」
信西はすこしゆがんだ唇をほどいて[#底本では「ほどいで」と誤記]ほほえんだが、聴く人はにっこりともしなかった。
「調達《ちょうだ》は八万蔵をそらんじながら遂に奈落に堕《お》ちたという。いかに学問ばかり秀《ひい》でようとも、根本のこころざしが邪道《よこしま》にねじけておっては詮ない。かえって学問が身の禍いをなす例《ためし》もある。予が見るところでは弟の頼長もそれじゃ。彼がお身のもとへ参ったら、この上に学問無用と意見おしやれ」
善悪にかかわらず、うかつに返事をしないのが信西の癖であった。彼は今夜もしばらく黙って考えているので、忠通はすこし急《せ》いた。
「弟子を見ることは師に如《し》かずといえば、彼の人となり
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