、彼はまたあざ笑うような眼をした。
「はい。恋の取り持ちを頼もうかと……」
こうしたなまぬるい恋ばなしを好まない頼長も、この美麗な才女に対してあまりに情《すげ》ない返事も出来ないので、いい加減に取り合わせて言った。
「お身ほどの者でも、人を頼まいでは恋はならぬか。恋はなかなかにむずかしいものじゃな」
「身にあまる望みでござりますれば……」
玉藻は遣《や》る瀬ないように低い溜息をついて、頼長の顔をそっとのぞいた。人を蠱惑《こわく》せねばやまないような情け深い女の眼のひかりに魅せられて、頼長の魂は思わずゆらめいた。
「ほう、身にあまる望みとか。これはいよいよむずかしゅう見ゆるぞ。兼輔ひとりの力に及ばずば、頼長も共どもに助力してお身が恋をかなえてやりたい。相手は誰じゃ。明かされぬか」
「お身さまの前では申し上げられませぬ」と、玉藻は藤紫の小袿《こうちぎ》の袖で切《せつ》ない胸をかかえるように俯向いた。嵐は桜の梢をゆすって通った。
「予が前では言われぬか。頼長は兼輔ほどに頼もしい男でないと見積もられたか。さりとは心外じゃ」と、頼長はいよいよ興《きょう》にふけったように高く笑った。
藤むらさきの袖の蔭から白い顔はまた現われた。彼女は媚びるように低くささやいた。
「頼もしいと見らるるも、頼もしからぬと見らるるも、お身さまのお心一つでござりまする」
「はて、謎《なぞ》なぞのようなことは言わぬものじゃ。いかようにすれば頼長は世に頼もしい男とならるるのじゃ。打ち付けに言え、あらわに申せ」
「申しましょうか」と、玉藻はすこしためらう風情を見せたが、やがて思い切ったように言った。「関白の殿のおん身内、才学は世にかくれのない御仁《ごじん》……。桜さくらの仇めいて艶《あで》なるなかに、梨の花のように白う清げに見ゆるおん方……。もうその上は申されぬ。お察し下さりませ」
頼長は夢から醒めたように眼を見据えて、その秀《ひい》でたる眉をすこし皺めたが、忽ちに肩をそらせてあざ笑った。
「おお、判った。して、お身はその恋の取り持ちをたしかに兼輔に頼んだか」
「まだ打ち明けては頼まぬ間に……」
「頼長がまいって邪魔したか、それは結句仕合わせじゃ。兼輔はおろか、関白殿、信西入道、あらゆる人びとのなかだちでも、この恋は所詮《しょせん》ならぬと思え」
「なりませぬか」
「ならぬ、ならぬ。お身たちが恋を語るには兼輔などの柔弱者《にゅうじゃくもの》がよい相手じゃ」
言い捨てて立ち去ろうとする頼長のゆく手をさえぎって、玉藻は突き当たるばかりに彼の胸のあたりへ我が身をもたせかけた。
「じゃによって、身にあまる望みと申したではござりませぬか」と、彼女は怨《えん》ずるように泣き声をふるわせた。
「身にあまるというても程のあるものじゃ」と、頼長はあざけるように笑った。「天下を望むよりも大きい恋じゃ。しょせん成らぬのは知れてあるわ」
自分の胸のあたりへ蛇のように纒《まと》いかかっている女の長い黒髪を無雑作《むぞうさ》に押しのけて、頼長は沓《くつ》を早めてあなたの亭《ちん》の方へ行ってしまった。
玉藻はきこえよがしに声を立てて桜の幹に倚《よ》りかかって泣き崩おれたが、もうその人の影が遠くなったのを覚ったときに、彼女は俄に空を仰いで物凄い笑みを洩らした。その顔の上にはらはらと降りかかって来る花びらを、彼女はうるさそうに扇で払いながら、これも座敷の方へ静かに立ち去ろうとした。春の日ももう暮れて、長い渡り廊をつたって女房どもや青侍たちが運んでゆく薄紅《うすあか》い灯の影が、木の間がくれに揺れながら通った。
「おお、玉藻の御。これにござったか」
織部清治は主人の言い付けで先刻から玉藻のありかを探していたのであった。同じ屋形に奉公の身ではあるが、玉藻は殿のあつい御寵愛を蒙って、息女のない忠通はさながら彼女を我が娘のようにもいとしがっていられるのであるから、清治も彼女に対しては、分外《ぶんがい》の敬意を払わなければならなかった。玉藻は自分の顔を見られるのを恐れるようにうつむいて立ち停まった。
「先刻から殿がおたずねでござる。早うあれへお越しなされ」と、清治は促《うなが》すように重ねて言った。
「わたしはいやじゃ。ゆるしてくだされ」と、玉藻は両袖で顔を掩ったままで、いつまでもそこに立ちすくんでいた。
その素振りが怪しいので清治は近寄って子細をただすと、その返事は泣き声で報いられた。玉藻は心持が悪いからもう座敷へは出ない。人びとの群れから遠く離れたあなたの亭《ちん》へ行ってしばらく休息していたいというのであった。清治はいよいよ心配して、すぐに医師《くすし》を呼ぼうかといったが、玉藻はそれもいやだと断わって、なんでもいいから人の目に触れないところへ行って、苦しい胸を休めていたいと言った。清治もそのままでは捨て置かれないので、主人のもとへ引っ返して行ってその次第をささやくと、忠通も眉を寄せた。
「ついぞないこと。どうしたものじゃ」
彼は席を起って清治と一緒に玉藻の隠れ場所をたずねると、彼女は奥まった亭の薄暗いなかに俯伏しているのを発見した。
「心地がようないと聞いたが、どうじゃな」と、忠通は立ち寄って、彼女の肩越しにうしろから覗こうとして驚いた。玉藻は床に顔をおしつけるばかり身を投げ伏して、嗚咽《おえつ》の声をもらしているのであった。清治も驚いた。主《しゅう》と家来とは顔をみあわせて暫く黙っていた。
「はは、こりゃ誰やらになぶられたな」と、忠通はほほえんだ。
昼からの饗宴で、ひとも我もみな酔うている。花と酒とに浮かされた若公家ばらのうちには、たそがれの薄暗がりにまぎれて彼女の袂《たもと》をひいた者もあろう、彼女の黒髪をなぶった者もあろう。それがけしからぬいたずらとしても、楚王《そおう》が纓《えい》を絶った故事も思いあわされて、きょうの場合には主人の忠通もそれを深く咎めたくなかった。清治もそこに気がつくと、今までの不安は一度に消えて、これもにやにやと笑い出した。
「なんの、珍しゅうもない。そんなことを一いち詮議立てしたら、今夜はそこらに幾人の科人《とがにん》ができようも知れぬ」と、平安朝時代の家人《けにん》は肚《はら》のなかで呟いた。
唐土の桃李園の風流になぞらえて、きょうは燭をとって夜も遊ぶというかねての計画であるので、どの座敷でも燈火《ともしび》が昼のようにともされた。春の一日をたわむれ暮らしても、まだ歓楽の興をむさぼり足らない人びとは、酔いくずれて眠りこけるか、疲れ切って倒れるか、それまでは夜を昼についで浮かれ狂うつもりであろう。朗詠《ろうえい》や催馬楽《さいばら》の濁った声もきこえた。若い女の華やかな笑い声もひびいた。その騒がしい春の夜のなま暖かい空気のなかに、桜の花ばかりは黙って静かに散った。
「さあ、来やれ。そちがおらいでは座敷がさびしい。玉藻の前はきょうの団欒《まどい》の花じゃと皆も言うている。夜の灯に照り映えたら、その美しい顔が一段と光りかがやいて見えようぞ。来やれ、来やれ。あの賑わしい方へ……」
手を取らぬばかりに引き立てられて、玉藻は泣き顔をおさえながら立ち上がった。忠通と清治とはその前後を囲んで、うす暗い渡り廊を静かにあゆんで行った。おぼろ月が今宵はとりわけて霞んでいるらしく、軒に近い花のこずえも唯ぼんやりと薄白く仰がれた。
三
あかりの運ばれるのを合図に、頼長は席を起って帰った。気を置かれる人が立ち去ったので、若い人たちはいよいよ調子づいてきた。とりわけて左少弁兼輔はほっとした。脛《すね》に疵《きず》持つ彼は、頼長になにやら睨まれているような気がして、なるべくその傍へは寄り付かぬように努めていたが、もう誰に憚ることもない。玉藻のありかをもう一度たずねて、さっき言い残した話のかずかずを語りつづけようと、彼は酔いにまぎらせてよろよろと座を起った。
「あれ、あぶない」
酔いをたすける風をして、若い女房たちが左右から付きまつわって来るのを、彼はいつになくうるさそうに押しのけて、おぼろ月夜の庭さきへ迷い出たが、どこの木蔭にもそれらしい人の影は見えなかった。彼は餌をあさる狐のように、木《こ》の間《ま》をくぐって他の亭座敷をうろうろと覗いてあるいたが、どこの灯の下にも玉藻の輝いた顔は見つけ出されなかった。彼は失望して元の座敷へ戻ると、女房たちは待ちかねたように再び彼を取りまいた。
ここが一番広い座敷で、きょうの賓客《まろうど》のおもな者は大抵ここに席を占めていた。兼輔も藁褥《わらうだ》の上に引き据えられて又もや酒をしいられた。酒量の強いのを誇っている彼も、昼からの酒が胸いっぱいになって、さすがに頭が重くなってきたので、彼は憚りもなく自分のそばにいる若い女房の膝を枕にして、小声で朗詠を謡っていた。兼輔ばかりでない、一座はもう乱れに乱れて、そこらには座に堪えやらないような若い男たちもだんだんにふえてきた。縁さきへ出て手持ち無沙汰に月を仰いでいるのは、もう春の盛りを過ぎて額ぎわのさびしい古女房たちばかりで、眉の匂やかな若い女たちは、思い思いに男の介抱に忙しかった。時どきに広い座敷もゆらぐような笑い声がどっと起こった。
「信西入道はきょうは見えぬそうな」と、ひとりの若い公家が思い出したように言った。「あの古《ふる》入道、このようなまどいに加わるは嫌いじゃで、所労というて不参じゃよ」
「宇治の左大臣殿ももう戻られたとやら」と、その枕もとになまめかしく膝をくずしている若い女房が、鬢《びん》のおくれ毛を掻き上げながら言った。
「あの御仁《ごじん》もこのような席へは余り近寄られぬ方じゃが、きょうは兄の殿への義理で、暮れ方までは辛抱せられた。左大臣どのも信西入道も我らには苦手じゃ。あの鋭い眼でじっと睨まれると、なにやら薄気味悪うなって身がすくむようじゃ。ははははは」
また一人の男が高く笑い出すと、兼輔はだるそうな眼をして半分起き直った。
「ほんにそうじゃ。さっきも……」
と言いかけて彼はまた俄に口をつぐんだ。妬みぶかい男や女が大勢|列《なら》んでいるところで、うかつに先刻の秘密は明かされないと思った。まだ寄るべも定まらない池の玉藻を、あっぱれ自分の手にかき寄せたという強い誇りが彼の胸に満ちていながらも、さすがにまだそれを発表する時機ではないと、彼は無理に奥歯で噛み殺していた。
「さっきもどうなされた。お身さまも何か叱られたか、睨まれたか」と、彼に膝枕をかしていた女が、薄い麻紙で口紅をぬぐいながら訊いた。
「いや、別に何事もなかったが、庭先きでふとすれ違うたので、早々に逃げて来た」と、兼輔は笑いにまぎらせた。
そう言いながらも気にかかるので、彼は伸び上がって座敷の隅々を見渡したが、玉藻らしい女の影はやはりどこにも見えなかった。彼はまた一種の不安を感じはじめた。何者かが彼女を小蔭へ誘い出して、自分と同じように恋歌の返しを迫っているのではないかとも疑われた。彼はもう一度庭へ出てみたくなったので、いい加減に座をはずして立とうとすると、あいにくにその鼻のさきへ一人の大男が瓶子《へいし》と土器《かわらけ》とを両手に持って来た。
「左少弁、どこへゆく。実雅《さねまさ》の杯じゃ。受けてたもれ」
彼はそこにどっかと坐った。彼は少将実雅という酒の上のよくない男であった。兼輔は迷惑そうに頭《かぶり》を振った。
「もうかなわぬ。免《ゆる》してたもれ」
「そりゃ卑怯じゃぞ」と、実雅は無理に土器を突きつけた。「お身この酒を飲まぬとあらば、その罰としてわしがこの瓶子を飲みほすあいだに、歌百首を詠み出してお見やれ」
「いや、歌も詩も五も六ない。この通りに酔うては、唯もう免せ、ゆるせ」と、兼輔はわざとおどけた身振りをして蛙のように床へ手をついた。
「ほう、実雅の前で詫ぶるというか。まだそればかりでは免されぬ。お身、ここで、白状せい」
兼輔はひやりとした。その慌てたような顔をじっと睨みつけて、実雅はのけぞるばかり胸を突き出してあざ笑った。
「どうじゃ、白状せぬか。お身は先程あの川端で
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