び水のきわへ這い戻って、蒼ざめた顔を水に映した一刹那に、うしろからその腰のあたりを引っ掴んで不意にひき戻した者があった。
「これ、待て」
 それは下部《しもべ》らしい小男であった。くずれた堤の上にはその主人らしい男が立っていた。もう争うほどの力もない千枝松は、子供につかまれた狗《いぬ》ころのように堤のきわまでずるずると曳き摺られて行った。
「お前はそこに何をしている」と、主人らしい男は彼に徐《しず》かに訊いた。男は三十七、八でもあろう。水青の清らかな狩衣《かりぎぬ》に白い奴袴《ぬばかま》をはいて、立《たて》烏帽子をかぶって、見るから尊げな人柄であった。彼は鼻の下に薄い髭をたくわえていた。優しいながらもどこやらに犯し難《がた》い威をもった彼の眼のひかりに打たれて、千枝松は土に手をついた。
「見れば顔色もようない」と、男は重ねて言った。「おまえは怪異《あやかし》に憑《つ》かれて命をうしなうという相《そう》が見ゆる。あぶないことじゃ」
「殿のおたずねじゃ。つつまず言え。おのれ入水《じゅすい》の覚悟であろうが……」と、下部は叱るように言った。
「わしは播磨守泰親《はりまのかみやすちか》じゃ。何
前へ 次へ
全285ページ中77ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング