るには兼輔などの柔弱者《にゅうじゃくもの》がよい相手じゃ」
言い捨てて立ち去ろうとする頼長のゆく手をさえぎって、玉藻は突き当たるばかりに彼の胸のあたりへ我が身をもたせかけた。
「じゃによって、身にあまる望みと申したではござりませぬか」と、彼女は怨《えん》ずるように泣き声をふるわせた。
「身にあまるというても程のあるものじゃ」と、頼長はあざけるように笑った。「天下を望むよりも大きい恋じゃ。しょせん成らぬのは知れてあるわ」
自分の胸のあたりへ蛇のように纒《まと》いかかっている女の長い黒髪を無雑作《むぞうさ》に押しのけて、頼長は沓《くつ》を早めてあなたの亭《ちん》の方へ行ってしまった。
玉藻はきこえよがしに声を立てて桜の幹に倚《よ》りかかって泣き崩おれたが、もうその人の影が遠くなったのを覚ったときに、彼女は俄に空を仰いで物凄い笑みを洩らした。その顔の上にはらはらと降りかかって来る花びらを、彼女はうるさそうに扇で払いながら、これも座敷の方へ静かに立ち去ろうとした。春の日ももう暮れて、長い渡り廊をつたって女房どもや青侍たちが運んでゆく薄紅《うすあか》い灯の影が、木の間がくれに揺れながら通った。
「おお、玉藻の御。これにござったか」
織部清治は主人の言い付けで先刻から玉藻のありかを探していたのであった。同じ屋形に奉公の身ではあるが、玉藻は殿のあつい御寵愛を蒙って、息女のない忠通はさながら彼女を我が娘のようにもいとしがっていられるのであるから、清治も彼女に対しては、分外《ぶんがい》の敬意を払わなければならなかった。玉藻は自分の顔を見られるのを恐れるようにうつむいて立ち停まった。
「先刻から殿がおたずねでござる。早うあれへお越しなされ」と、清治は促《うなが》すように重ねて言った。
「わたしはいやじゃ。ゆるしてくだされ」と、玉藻は両袖で顔を掩ったままで、いつまでもそこに立ちすくんでいた。
その素振りが怪しいので清治は近寄って子細をただすと、その返事は泣き声で報いられた。玉藻は心持が悪いからもう座敷へは出ない。人びとの群れから遠く離れたあなたの亭《ちん》へ行ってしばらく休息していたいというのであった。清治はいよいよ心配して、すぐに医師《くすし》を呼ぼうかといったが、玉藻はそれもいやだと断わって、なんでもいいから人の目に触れないところへ行って、苦しい胸を休めていたいと言った。清治もそのままでは捨て置かれないので、主人のもとへ引っ返して行ってその次第をささやくと、忠通も眉を寄せた。
「ついぞないこと。どうしたものじゃ」
彼は席を起って清治と一緒に玉藻の隠れ場所をたずねると、彼女は奥まった亭の薄暗いなかに俯伏しているのを発見した。
「心地がようないと聞いたが、どうじゃな」と、忠通は立ち寄って、彼女の肩越しにうしろから覗こうとして驚いた。玉藻は床に顔をおしつけるばかり身を投げ伏して、嗚咽《おえつ》の声をもらしているのであった。清治も驚いた。主《しゅう》と家来とは顔をみあわせて暫く黙っていた。
「はは、こりゃ誰やらになぶられたな」と、忠通はほほえんだ。
昼からの饗宴で、ひとも我もみな酔うている。花と酒とに浮かされた若公家ばらのうちには、たそがれの薄暗がりにまぎれて彼女の袂《たもと》をひいた者もあろう、彼女の黒髪をなぶった者もあろう。それがけしからぬいたずらとしても、楚王《そおう》が纓《えい》を絶った故事も思いあわされて、きょうの場合には主人の忠通もそれを深く咎めたくなかった。清治もそこに気がつくと、今までの不安は一度に消えて、これもにやにやと笑い出した。
「なんの、珍しゅうもない。そんなことを一いち詮議立てしたら、今夜はそこらに幾人の科人《とがにん》ができようも知れぬ」と、平安朝時代の家人《けにん》は肚《はら》のなかで呟いた。
唐土の桃李園の風流になぞらえて、きょうは燭をとって夜も遊ぶというかねての計画であるので、どの座敷でも燈火《ともしび》が昼のようにともされた。春の一日をたわむれ暮らしても、まだ歓楽の興をむさぼり足らない人びとは、酔いくずれて眠りこけるか、疲れ切って倒れるか、それまでは夜を昼についで浮かれ狂うつもりであろう。朗詠《ろうえい》や催馬楽《さいばら》の濁った声もきこえた。若い女の華やかな笑い声もひびいた。その騒がしい春の夜のなま暖かい空気のなかに、桜の花ばかりは黙って静かに散った。
「さあ、来やれ。そちがおらいでは座敷がさびしい。玉藻の前はきょうの団欒《まどい》の花じゃと皆も言うている。夜の灯に照り映えたら、その美しい顔が一段と光りかがやいて見えようぞ。来やれ、来やれ。あの賑わしい方へ……」
手を取らぬばかりに引き立てられて、玉藻は泣き顔をおさえながら立ち上がった。忠通と清治とはその前後を囲んで、うす暗い渡り廊を静かにあゆん
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