あめをおぶ》」というのは、まさしくこの趣であろうとも思われた。彼は慰めるように又言った。
「はて、われらの約束にいつわりはござらぬ。あすでもあさってでも、かならず一緒に連れ立って参る。文のたよりさえ遣《よこ》されたら、なんどきでもすぐに誘いにまいる。叔父が頑固になんと言おうとも、われらがきっとその前に連れ出して引き合わしてみしょう」
 頼もしそうな誓いを聞いて、玉藻は嬉しそうにうなずいた。二人はひたと身をよせて更に何事をかささやき合おうとするところへ、木の間伝いにここへ近寄って来る足音がきこえた。兼輔はすこし慌てて見かえると、その人は三十をまだ越えたばかりの痩形の男で、顔の色はやや蒼白いが、この頃の殿上人には稀に見る精悍の気がその鋭い眼の底にあふれていた。彼はわざと拗《す》ねたのであろう、きょうの華やかな宴の莚に浄衣《じょうえ》めいた白の直衣《のうし》を着て、同じく白い奴袴《ぬばかま》をはいていた。
 彼はきょうのあるじの忠通の弟で、宇治の左大臣|頼長《よりなが》であった。彼は師の信西入道をも驚かすほどの博学で、和歌に心を寄せる兄の忠通を常に文弱と罵っているほどに、抑えがたい覇気と野心とに充《み》ち満ちている人物であった。この人にじろりと鋭い一瞥《いちべつ》を呉れられて、兼輔はなんだか薄気味悪くなって来た。ことに場合が場合であるので、彼はいよいよ度を失って、肌の背には冷汗がにじんだ。
「ほう、左少弁はこれにいたか」と、頼長はその怖い眼には不似合いな柔かい声で言った。
 それでもこちらはやはり落ち着いていられなかった。彼は酒の酔いを醒ますためにこの川端へ降りていたことを言い訳がましく答えると、頼長はあざ笑うような眼をして黙って聞いていた。なんだか居心の悪い兼輔は、玉藻と眼をみあわせて早々にそこを逃げて行ってしまった。頼長はまだそこに立っている玉藻には眼もくれないで、薄むらさきの霞のうちに暮れかかる春の夕空を静かに打ち仰いでいた。嵐が少し吹き出したとみえて、花の吹雪が彼の白い立ち姿をつつんで落ちた。
「左大臣殿」と、玉藻はしとやかに声をかけた。
「なんじゃ」と、頼長も静かに見かえった。
「嵐が誘うてまいりました」
「花もここ二、三日が命《いのち》じゃのう。お身は兼輔とここで何を語ろうていた」と、頼長は笑いながら訊いた。
「歌物語など致しておりました」
「恋歌の講釈か」と、彼はまたあざ笑うような眼をした。
「はい。恋の取り持ちを頼もうかと……」
 こうしたなまぬるい恋ばなしを好まない頼長も、この美麗な才女に対してあまりに情《すげ》ない返事も出来ないので、いい加減に取り合わせて言った。
「お身ほどの者でも、人を頼まいでは恋はならぬか。恋はなかなかにむずかしいものじゃな」
「身にあまる望みでござりますれば……」
 玉藻は遣《や》る瀬ないように低い溜息をついて、頼長の顔をそっとのぞいた。人を蠱惑《こわく》せねばやまないような情け深い女の眼のひかりに魅せられて、頼長の魂は思わずゆらめいた。
「ほう、身にあまる望みとか。これはいよいよむずかしゅう見ゆるぞ。兼輔ひとりの力に及ばずば、頼長も共どもに助力してお身が恋をかなえてやりたい。相手は誰じゃ。明かされぬか」
「お身さまの前では申し上げられませぬ」と、玉藻は藤紫の小袿《こうちぎ》の袖で切《せつ》ない胸をかかえるように俯向いた。嵐は桜の梢をゆすって通った。
「予が前では言われぬか。頼長は兼輔ほどに頼もしい男でないと見積もられたか。さりとは心外じゃ」と、頼長はいよいよ興《きょう》にふけったように高く笑った。
 藤むらさきの袖の蔭から白い顔はまた現われた。彼女は媚びるように低くささやいた。
「頼もしいと見らるるも、頼もしからぬと見らるるも、お身さまのお心一つでござりまする」
「はて、謎《なぞ》なぞのようなことは言わぬものじゃ。いかようにすれば頼長は世に頼もしい男とならるるのじゃ。打ち付けに言え、あらわに申せ」
「申しましょうか」と、玉藻はすこしためらう風情を見せたが、やがて思い切ったように言った。「関白の殿のおん身内、才学は世にかくれのない御仁《ごじん》……。桜さくらの仇めいて艶《あで》なるなかに、梨の花のように白う清げに見ゆるおん方……。もうその上は申されぬ。お察し下さりませ」
 頼長は夢から醒めたように眼を見据えて、その秀《ひい》でたる眉をすこし皺めたが、忽ちに肩をそらせてあざ笑った。
「おお、判った。して、お身はその恋の取り持ちをたしかに兼輔に頼んだか」
「まだ打ち明けては頼まぬ間に……」
「頼長がまいって邪魔したか、それは結句仕合わせじゃ。兼輔はおろか、関白殿、信西入道、あらゆる人びとのなかだちでも、この恋は所詮《しょせん》ならぬと思え」
「なりませぬか」
「ならぬ、ならぬ。お身たちが恋を語
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