そりゃお身さま御自身のことじゃ。わたくしのような端下者《はしたもの》が何でそのような……。現在の証拠はお身さまこそ、さっきから人待ち顔にここに忍んでござるでないか」
 今度は別に言い訳をしようともしないで、兼輔は唯にやにやと笑っていた。実をいうと、彼もそういう心構えがないでもない。自分ほどの者がまどいを離れて、こうして一人でさまよっているからには、誰か慕い寄って来る女があるに相違ないと、誰をあてともなしに待ち網を張っているところへ、思いのほかの美しい人魚が近寄って来たのであった。彼はどうしてこの獲物を押さえようかとひそかに工夫を練っていた。
「うたがいも人にこそよれ、兼輔はさような浮かれた魂を抱えた男でござらぬ。そういうお身はなにしにここへ参られた。われらこそここにおってはお邪魔であろうに……。ほんにそうじゃ。お身が先刻あちらの亭へゆけと言われたは、その謎か。それを悟らで、うかうかと長居したは、われらの不粋《ぶすい》じゃ。ゆるしてくだされ」
 相手の心をさぐるつもりであろう。彼は笑いにまぎらせて徐《しず》かにここを立ち去ろうとすると、その袂はいつか白い手につかまれていた。
「お身さま、御卑怯じゃ」
 兼輔は相手の心をはかりかねて、黙って立ち停まった。
「殿上人のうちでも、風流の名の高いお身さまじゃ。女子《おなご》をなぶるは常のことと思うてもいらりょうが、もしここに浅はかな一途《いちず》な女子があって、なぶらるるとは知らいで思いつめたら、お身さまそれをどうなされまする」
「われらは正直者、ひとをなぶった覚えはござらぬ」と、兼輔は眼で笑いながら空うそぶいた。
「いや、無いとは言わせませぬ。お身さま、これを御存じないか」
 玉藻は丁寧に畳んだ短冊をふところから探り出して、男の眼の前につきつけた。嬉しいと、さすがに恥ずかしいとが一つになって、兼輔は顔の色をすこし染めた。
「お身さまは御卑怯と言うたが無理か。この歌の返しを申し上げようとて人目を忍んでまいったものを、お身さまはむごく突き放して逃ぎょうとか」
 妖艶な瞳《ひとみ》のひかりに射られて、兼輔は肉も骨も一度にとろけるように感じた。玉藻は笑いながらその短冊を再び自分のふところに収めると、若い公家の魂もそれと一緒に、女のふところへ吸い込まれてしまった。

    二

「お身さまの叔父御は法性寺《ほっしょうじ》の隆秀阿闍梨《りゅうしゅうあじゃり》でおわすそうな。世にも誉れの高い碩学《せきがく》の聖《ひじり》、わたくしも一度お目見得して、眼《ま》のあたりに教化《きょうげ》を受けたい。お身さま御案内してくださらぬか」と、玉藻は思い入ったように言った。それは、彼女の口から恋歌の返しを兼輔の耳にそっとささやいた後であった。
「ほう、法性寺の叔父にお身はまだ一度も逢われぬか」と、兼輔はすこし不思議そうな顔をした。
 法性寺は誰も知る通り、関白家|建立《こんりゅう》の寺である。忠通卿の尊崇なおざりでないことは兼輔もかねて知っていた。その寺の尊い阿闍梨に、玉藻が一度も顔をあわせていないというのは、なんだか理屈に合わないようにも思われた。
「阿闍梨は女子《おなご》がきついお嫌いそうな」と、玉藻はそれを説明するように寂しくほほえんだ。
 甥の兼輔とは違って、叔父の隆秀阿闍梨は戒律堅固の高僧であった。彼は得度《とくど》しがたき悪魔として女人《にょにん》を憎んでいるらしく、いかなる貴人《あてびと》の奥方や姫君に対しても、彼は膝をまじえて語るのを好まなかった。忠通もそれをよく知っているので、法性寺詣でのときに限って、決して女子を伴って行ったことはなかった。寵愛の玉藻の望みでも、法性寺の供だけは一度も許されなかった。兼輔もそこに気がついて苦笑いした。
「はは、叔父のかたくなは今に始まったことでござらぬ。われらも顔さえ見せれば何かと叱られて、むずかしい説法を小半※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、78−6]《こはんとき》も聞かさるる。うかと美しい女子など引き合わせたら、また何を言わりょうやら。しかしほかならぬお身の頼みじゃ。ちっとぐらい叱られても苦しゅうござらぬ。なんどきなりとも案内して、叔父の阿闍梨に逢わせ申そうよ」と、彼は事もなげに受け合った。
「八歳の龍女が当下《とうげ》に成仏したことは提婆品《だいばぼん》にも説かれてあります。いかに罪業《ざいごう》のふかい女子の身とて、尊い阿闍梨の教化を受けましたら、現世《げんせ》はともあれ、せめて来世《らいせ》は心安かろうにと、唯そればかりを念じておりまする」と、玉藻の声はすこしく陰った。
 いたましく打ちしおれたような玉藻のすがたが、兼輔の眼には更に一段のあでやかさを加えたようにも見られた。彼が好んで口ずさむ白楽天の長恨歌の「梨花一枝春帯雨《りかいっしはる
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