薄いというので、なにがしの女房たちや、なにがしの姫たちもみな華やかなよそおいを凝らして、その莚に列《つら》なっていた。その美しい衣の色や、袖の香や、楽の音《ね》や、それもこれも一つになって、あぶるように暖かい春のひかりの下に溶けて流れて、花も蝶も鶯も色をうしない声をひそめるばかりであった。
 これもその美しい絵巻物のなかから抜け出して来た一人であろう。縹色《はないろ》の新しい直衣《のうし》を着た若い公家《くげ》が春風に酔いを醒ませているらしく、水にただよう花の影をみおろしながら汀《みぎわ》の白い石の上に立っていると、うしろからそっと声をかけた者があった。男は振り向いて立烏帽子のひたいを押し直した。
「玉藻《たまも》の前《まえ》。きょうはいろいろの御款待《おんもてなし》、なにかと御苦労でござった」
 若い公家は左少弁兼輔《さしょうべんかねすけ》であった。色の白い、髯《ひげ》の薄い優雅の男振りで、詩文もつたなくない、歌も巧みであった。そのほかに絵もすこしばかり描いた。笛もよく吹いた。当代の殿上人のうちでも風流男《みやびおとこ》の誉れをうたわれて、なんの局《つぼね》、なんの女房としばしばあだし名を立てられるのを、ひとにも羨《うらや》まれ、彼自身も誇らしく考えていた。
 その風流男の前に立って恥じらう風情もなしに心易げに物をいう女子《おなご》は、人間の色も恋もとうに忘れ果てた古《ふる》女房か、但しは色も風情も彼に劣らぬという自信をもった風流乙女《みやびおとめ》か、二つのうちの一つでなければならなかった。彼と向き合っている女子は確かに後の方の資格を完全にそなえていた。
「なんの御会釈《ごえしゃく》に及びましょう。おんもてなしはわたくしどもの役目、何事も不行届きで申し訳がござりませぬ。この頃の春の日の暮るるにはまだ間《ひま》もござりましょう。あちらの亭《ちん》へお越しなされて、今すこし杯をお過ごしなされてはいかが。わたくし御案内を仕まつります」
「いや、折角ながら杯はもう御免くだされ。先刻からいこう酔いくずれて、みだりがましい姿を人びとに見せまいと、この木蔭《こかげ》まで逃げてまいったほどじゃ」と、兼輔は扇を額《ひたい》にかざしながらほほえんだ。
「と申さるるは嘘で、誰やらとここで出逢う約束と見えました。そういうことなら、わたくし何時《いつ》までもここにいて、お前がたの邪魔しますぞ」と、女も扇を口にあてて軽く笑った。
「これは迷惑。われらには左様な心当ては少しもござらぬ。唯ここにさまよい暮らして、物いわぬ花のかげを眺めているばかりじゃ。おなぶりなさるな」
 まじめらしく言い訳する男の顔を、女はやはり笑いながらじっと見入っていた。遠い亭座敷から笛の声がゆるく流れて来て、吹くともない春風にほろほろと零《こぼ》れて落ちる桜の花びらが、女の鬢《びん》の上に白く宿った。
 女は玉藻の前であった。坂部庄司蔵人行綱の娘の藻が関白忠通卿の屋形に召し出されて、侍女《こしもと》の一人に加えられたのは、彼女が十四の秋であった。当代の賢女と言い囃されていた忠通の奥方は、それから間もなくにわかに死んだ。忠通もその後無妻であったので、美しいが上にさかしい藻は主人《あるじ》の卿の寵愛を一身にあつめて、ことし十八の花の春をむかえた。奉公の後も忠通はむかしのままに藻という名を呼ばせていたが、玉のように清らかな彼女のかんばせは早くも若公家ばらの眼をひいて、誰が言い出したともなしに、彼女の名の上には玉という字がかぶらせられた。それがだんだんに言い慣わされて、あるじの忠通すらも今では彼女を玉藻と呼ぶようになった。才色たぐいなきこの乙女を自分の屋形にたくわえてあるということが、あるじの一種の誇りとなって、客のあるごとに忠通は玉藻を給仕に召した。かりそめの物詣でや遊山《ゆさん》にもかならず玉藻を供に連れて出た。忠通がこの頃ようやく華美の風に染みて来たのも玉藻を近づけてから後のことであった。
 玉藻が外から帰って来ると、長い袂はいつも重くなっていた。その袂へ人知れずに投げ込まれたかずかずの文《ふみ》や歌には、いずれもあこがれた男どもの魂がこもっていたが、玉藻は一度も返しをしなかった。それでも根気よくまつわって来る者が多いので、彼女の袂はきょうもよほど重くなっているらしかった。それを察して、今度は兼輔の方からなぶるように言った。
「のう、玉藻の前。きょうはお身の袂も定めて重いことでござろう。身投げするものは袂に小石を拾うて入るるとかいうが、お身のように重い袂を持っている者が迂闊にこの流れに陥《おちい》ったら、なかなか浮かびあがられまい。気をつけたがようござるぞ」
 精いっぱい軽口《かるくち》のつもりで彼は自分から笑ってかかると、玉藻も堪えられないように、扇で顔をかくしながら言った。

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