び水のきわへ這い戻って、蒼ざめた顔を水に映した一刹那に、うしろからその腰のあたりを引っ掴んで不意にひき戻した者があった。
「これ、待て」
それは下部《しもべ》らしい小男であった。くずれた堤の上にはその主人らしい男が立っていた。もう争うほどの力もない千枝松は、子供につかまれた狗《いぬ》ころのように堤のきわまでずるずると曳き摺られて行った。
「お前はそこに何をしている」と、主人らしい男は彼に徐《しず》かに訊いた。男は三十七、八でもあろう。水青の清らかな狩衣《かりぎぬ》に白い奴袴《ぬばかま》をはいて、立《たて》烏帽子をかぶって、見るから尊げな人柄であった。彼は鼻の下に薄い髭をたくわえていた。優しいながらもどこやらに犯し難《がた》い威をもった彼の眼のひかりに打たれて、千枝松は土に手をついた。
「見れば顔色もようない」と、男は重ねて言った。「おまえは怪異《あやかし》に憑《つ》かれて命をうしなうという相《そう》が見ゆる。あぶないことじゃ」
「殿のおたずねじゃ。つつまず言え。おのれ入水《じゅすい》の覚悟であろうが……」と、下部は叱るように言った。
「わしは播磨守泰親《はりまのかみやすちか》じゃ。何者の子か知らぬが、おまえの命を救うてやりたい。死ぬる子細をつぶさに申せ」
泰親の名を聴いて、千枝松もおもわず頭をあげて、自分の前に立っているその人の顔を恐るおそる仰いで視た。播磨守泰親は陰陽博士《おんようはかせ》安倍晴明《あべのせいめい》が六代の孫で、天文|亀卜《きぼく》算術の長《おさ》として日本国に隠れのない名家である。その人の口からお前には怪異が憑いていると占われて、千枝松はいよいよ怖ろしくなった。
彼は泰親の前で何事もいつわらずに語った。泰親は眼をとじてしばらく勘考《かんこう》していたが、やがて又|徐《しず》かに言った。
「その藻とやらいう女子《おなご》の住み家はいずこじゃ。案内せい」
泰親はなにやら薬をとり出してくれた。それを飲むと千枝松は俄に神気《しんき》がさわやかになった。彼は下部にたすけられて行綱の家の前までたどってゆくと、泰親は立ち停まって家のまわりを見廻した。それから更に眉を皺めて家の上を高く見あげた。
「凶宅《きょうたく》じゃ」
柿の梢にはいつもの大きい鴉が啼いていた。
花《はな》の宴《うたげ》
一
それから年のこよみが四たび変わって、仁平《にんぺい》二年の春が来た。
この三、四年は疫病神《やくびょうがみ》もどこへか封じ込められて、そのあらぶる手を人間の上に加えなかった。ややもすれば神輿《じんよ》を振り立てて暴れ出す延暦寺の山法師どもも、この頃はおとなしく斎《とき》の味噌汁をすすって経を読んでいるらしい。長巻《ながまき》のひかりも高足駄の音も都の人の夢を驚かさなかった。検非違使《けびいし》の吟味が厳しいので盗賊の噂も絶えた。火事も少なかった。嵐もなかった。この世の乱れも近づいたようにおびえていた平安朝末期の人の心もいつか弛《ゆる》んで、再び昔ののびやかな気分にかえると、そのゆるんだ魂《たま》の緒《お》を更にゆるめるように、ことしの春はうららかに晴れた日がつづいた。野にも山にも桜をかざして群れ遊ぶ人が多いので、浮かれた蝶はその衣《きぬ》の香を追うに忙しかった。
関白忠通卿が桂の里の山荘でも、三月のなかばに花の宴《うたげ》が催された。氏《うじ》の長《おさ》という忠通卿の饗宴に洩れるのは一代の恥辱であると言い囃《はや》されて、世にあるほどの殿上人は競ってここに群れ集まった。濡るるとも花の蔭にてという風流の案内であったが、春の神もこの晴れがましい宴《うたげ》の莚《むしろ》を飾ろうとして、この日は朝から美しい日の光りが天にも地にも満ちていた。
風流の道にたましいを打ち込んで、華美《はで》がましいことを余り好まなかった忠通も、おととし初めて氏《うじ》の長者《ちょうじゃ》と定められてからおのずと心も驕《おご》って来た。世の太平にも馴れて来た。この当時の殿上人が錦を誇る紅葉《もみじ》のなかで、彼は飾りなき松の一樹と見られていたのが、いつか時雨《しぐれ》に染められて、彼もまた次第に華美を好むように移り変わって来た。もう一つには藤原氏の長者という大いなる威勢をひとに示そうとする政略の意味も幾分かまじって、きょうの饗宴は彼として実に未曽有《みぞう》の豪奢を極めたものであった。かねてこうと大かたは想像して来た賓客《まろうど》たちも、予想を裏切らるるばかりの善美の饗応《もてなし》には、そのやわらかい胆《きも》をひしがれた。あるじは得意であった。客もむろん満足であった。
思い思いに寄りつどって色紙や短冊に筆を染める者もあった。管絃《かんげん》の楽《がく》を奏する者もあった。当日の賓客は男ばかりではこちたくて興《きょう》が
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