で行った。おぼろ月が今宵はとりわけて霞んでいるらしく、軒に近い花のこずえも唯ぼんやりと薄白く仰がれた。

    三

 あかりの運ばれるのを合図に、頼長は席を起って帰った。気を置かれる人が立ち去ったので、若い人たちはいよいよ調子づいてきた。とりわけて左少弁兼輔はほっとした。脛《すね》に疵《きず》持つ彼は、頼長になにやら睨まれているような気がして、なるべくその傍へは寄り付かぬように努めていたが、もう誰に憚ることもない。玉藻のありかをもう一度たずねて、さっき言い残した話のかずかずを語りつづけようと、彼は酔いにまぎらせてよろよろと座を起った。
「あれ、あぶない」
 酔いをたすける風をして、若い女房たちが左右から付きまつわって来るのを、彼はいつになくうるさそうに押しのけて、おぼろ月夜の庭さきへ迷い出たが、どこの木蔭にもそれらしい人の影は見えなかった。彼は餌をあさる狐のように、木《こ》の間《ま》をくぐって他の亭座敷をうろうろと覗いてあるいたが、どこの灯の下にも玉藻の輝いた顔は見つけ出されなかった。彼は失望して元の座敷へ戻ると、女房たちは待ちかねたように再び彼を取りまいた。
 ここが一番広い座敷で、きょうの賓客《まろうど》のおもな者は大抵ここに席を占めていた。兼輔も藁褥《わらうだ》の上に引き据えられて又もや酒をしいられた。酒量の強いのを誇っている彼も、昼からの酒が胸いっぱいになって、さすがに頭が重くなってきたので、彼は憚りもなく自分のそばにいる若い女房の膝を枕にして、小声で朗詠を謡っていた。兼輔ばかりでない、一座はもう乱れに乱れて、そこらには座に堪えやらないような若い男たちもだんだんにふえてきた。縁さきへ出て手持ち無沙汰に月を仰いでいるのは、もう春の盛りを過ぎて額ぎわのさびしい古女房たちばかりで、眉の匂やかな若い女たちは、思い思いに男の介抱に忙しかった。時どきに広い座敷もゆらぐような笑い声がどっと起こった。
「信西入道はきょうは見えぬそうな」と、ひとりの若い公家が思い出したように言った。「あの古《ふる》入道、このようなまどいに加わるは嫌いじゃで、所労というて不参じゃよ」
「宇治の左大臣殿ももう戻られたとやら」と、その枕もとになまめかしく膝をくずしている若い女房が、鬢《びん》のおくれ毛を掻き上げながら言った。
「あの御仁《ごじん》もこのような席へは余り近寄られぬ方じゃが、きょうは兄の殿への義理で、暮れ方までは辛抱せられた。左大臣どのも信西入道も我らには苦手じゃ。あの鋭い眼でじっと睨まれると、なにやら薄気味悪うなって身がすくむようじゃ。ははははは」
 また一人の男が高く笑い出すと、兼輔はだるそうな眼をして半分起き直った。
「ほんにそうじゃ。さっきも……」
 と言いかけて彼はまた俄に口をつぐんだ。妬みぶかい男や女が大勢|列《なら》んでいるところで、うかつに先刻の秘密は明かされないと思った。まだ寄るべも定まらない池の玉藻を、あっぱれ自分の手にかき寄せたという強い誇りが彼の胸に満ちていながらも、さすがにまだそれを発表する時機ではないと、彼は無理に奥歯で噛み殺していた。
「さっきもどうなされた。お身さまも何か叱られたか、睨まれたか」と、彼に膝枕をかしていた女が、薄い麻紙で口紅をぬぐいながら訊いた。
「いや、別に何事もなかったが、庭先きでふとすれ違うたので、早々に逃げて来た」と、兼輔は笑いにまぎらせた。
 そう言いながらも気にかかるので、彼は伸び上がって座敷の隅々を見渡したが、玉藻らしい女の影はやはりどこにも見えなかった。彼はまた一種の不安を感じはじめた。何者かが彼女を小蔭へ誘い出して、自分と同じように恋歌の返しを迫っているのではないかとも疑われた。彼はもう一度庭へ出てみたくなったので、いい加減に座をはずして立とうとすると、あいにくにその鼻のさきへ一人の大男が瓶子《へいし》と土器《かわらけ》とを両手に持って来た。
「左少弁、どこへゆく。実雅《さねまさ》の杯じゃ。受けてたもれ」
 彼はそこにどっかと坐った。彼は少将実雅という酒の上のよくない男であった。兼輔は迷惑そうに頭《かぶり》を振った。
「もうかなわぬ。免《ゆる》してたもれ」
「そりゃ卑怯じゃぞ」と、実雅は無理に土器を突きつけた。「お身この酒を飲まぬとあらば、その罰としてわしがこの瓶子を飲みほすあいだに、歌百首を詠み出してお見やれ」
「いや、歌も詩も五も六ない。この通りに酔うては、唯もう免せ、ゆるせ」と、兼輔はわざとおどけた身振りをして蛙のように床へ手をついた。
「ほう、実雅の前で詫ぶるというか。まだそればかりでは免されぬ。お身、ここで、白状せい」
 兼輔はひやりとした。その慌てたような顔をじっと睨みつけて、実雅はのけぞるばかり胸を突き出してあざ笑った。
「どうじゃ、白状せぬか。お身は先程あの川端で
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