彼は当日の朝から俄に胸苦しいのを努めて、祈祷の供に加わった。祈祷が終わると、彼はもう魂がぬけたように疲れ果ててしまった。あくる日もやはり胸がいっぱいに塞がっているようで、湯も喉へは通らなかった。
「張りつめた気がゆるんだせいじゃ。おちついて少し休息せい」と、兄弟子の泰忠が親切にいたわってくれた。
 張り詰めた気がゆるむ――どうもそればかりではないらしく、彼自身には思われてならなかった。
 悪魔が形を消した――それは勿論、喜ばしいことに相違なかったが、それと同時に藻《みくず》という美しい女の形がこの世界から全く消え失せてしまったということが、千枝太郎には悲しく思われた。こうなると、たとい悪魔の精を宿しているにもせよ、藻という女の姿をもう少しこの世にとどめて置きたかった。彼は俄に藻が恋しくなった。世の禍いを鎮めるためとはいいながら、彼は古塚の秘密をみだりに兄弟子に口走ったのを今さら悔むような気にもなった。それは愚かであると知りながらも、彼はやはり藻が恋しかった。その形を仮りていた玉藻が恋しかった。
 この埒《らち》もない心の悩みを癒すために、彼は三浦の娘をたずねようと思い立った。祈祷から三日目の午《ひる》すぎに、千枝太郎は七条へ忍んで行って三浦の宿所の門前に立つと、彼は小源二から思いも寄らない報告をうけ取った。
「お身はまだ知らぬか。衣笠どのはおとといの夜にむなしくなられた」
「衣笠どのが亡《う》せられた……」
 千枝太郎は声も出ないほどに驚いた。小源二の話によると、祈祷の夜の亥《い》の刻ごろ、泰親がかの黒髪を火に燃やしたと恰《あたか》もおなじ頃に、彼女はにわかにこの世を去ったというのであった。屋敷じゅうの男どもはみな主人の供をして山科郷へと向かっていた留守であるから、詳しいことは確かにわからないが、そのときかの怪しい上臈が再び庭さきに姿をあらわしたと侍女《こしもと》どもはささやいていた。
「じゃによって、われらが案ずるには、かの玉藻めが殿様のお留守を窺って、衣笠殿に祟ったのではあるまいか。彼女《かれ》めが正体をあらわして飛び去るときに、憎いと思うものをとり殺していく。それはさもありげなことじゃが、なぜそれほどに衣笠どのに執念《しゅうね》く禍いするか、それが判らぬ。殿様|以《も》ってのほかの御愁傷で、よその見る目もおいたわしい。こうと知らば大切の孫娘をわざわざ都までは連れまいものをとのお悔みも、さらさら御無理とも思われぬよ」と、小源二もさすがに鼻をつまらせて語った。
 千枝太郎は新しい悲しみに囚《とら》われた。玉藻がなぜ衣笠の命を奪って行ったか、それは誰にも判ろう筈はないが、彼には思い当たることがないでもなかった。玉藻のおそろしい妬み――それが禍いのもとであるらしく思われてならなかった。三浦介が孫娘を連れて来たのを悔むとは又違った意味で、彼は三浦の宿所へ出入りしたのをしきりに悔んだ。彼は祈祷の前夜の怪しい夢を今更のように思い出した。
「思えばほんにおいたわしいことじゃ」と、千枝太郎もうるんだ眼瞼《まぶた》をしばたたいた。「方がたの御心中もお察し申す。われらがお悔み申し上ぐると、三浦の殿にもよろしゅうお取次ぎ下され」
 小源二にわかれて、彼は暗い心持で土御門の屋敷に帰った。それでも日を経るにしたがって、彼の元気もだんだんに回復して来た。師匠やほかの弟子たちの晴れやかな顔を見ていると、彼の結ぼれたような胸もおのずと開けて来た。
 十日ほどの後に、彼は師匠の許しを得て山科へゆくと、叔父も叔母も彼の手柄を喜んでくれた。それと同時に、彼はここでも思いも寄らない話を聞かされた。
「お前の久しい馴染みであった陶器師《すえものつくり》の翁《おきな》が俄に死んだよ」と、叔父は気の毒そうにささやいた。
「おお、あの翁が死んだかよ」と、千枝太郎はまた驚かされた。
「丁度あの祈祷の明くる朝であった。いつも早起きのあの翁が日の高うなるまで戸をあけぬのを不審がって、近所のものが隙きまからそっと覗いてみたら、翁は紙衾《かみぶすま》から半身這い出して、両手に空《くう》をつかんだままで……。ああ、善《い》い人であったがのう」
「ほんに善い人であったがのう」と、千枝太郎はおおむ返しに言って、深い溜息をついた。
 古塚へ夜まいりの女をみたという弥五六は、何物にか喉を食い裂かれて死んだ。それを千枝太郎に教えた陶器師の翁も三浦の孫娘とおなじ夜に死んだ。それらを一いち思いあわせると、彼は一種の強い恐怖におそわれた。玉藻という女を中心にして、いろいろの悲哀と恐怖とが再び千枝太郎の胸に重い石を置いた。彼は翁の墓にひと束の草花をそなえて帰った。
 あくる月のはじめである。
 野州《やしゅう》の那須の住人那須八郎|宗重《むねしげ》から早馬で都へ注進して来た。それは九月のなかばから白
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