にうずくまったのが眼に立った。
「すさまじい夜のさまじゃ、警固怠るな」と、忠通は言った。
女たちは身を固くしてひとつ所に寄りこぞって、誰も声を出す者はなかった。それをおびやかす稲妻がまた走って、座敷の燈火《ともしび》を奪うようにあたりを明るくさせた。と思うと、言い知れない一種の怪しい匂い、たとえば女の黒髪を燃やしたような怪しい匂いが、どこからともなしに湧き出して、無言の人びとの鼻に沁みた。
「あ、玉藻の御《ご》は……」と、熊武は床の下から伸び上がって叫んだ。
玉藻は毒薬を飲んだように身を顫《ふる》わせているのであった。彼女の長い髪は幾千匹のくちなわが怒ったように逆立《さかだ》って乱れ狂っていた。忠通もおどろいて声をかけた。
「玉藻。さのみ恐るるな。予もこれにおる。強力の者どももそこらに控えているぞ」
彼女はなんとも答えなかった。いや、答えることが出来ないのかもしれなかった。彼女は骨も肉も焼けただれていくかとばかりに、さも苦しげに身をもがいて、再び顔をもたげようともしなかった。
「玉藻、玉藻」と、忠通はまた叫んだ。
夜嵐が又どっと吹きおろして来て、座敷の燈火も侍どもの松明《たいまつ》も一度に打ち消されたかと思うと、玉藻の苦しみ悶《もだ》えている身のうちから怪しい光りがほとばしって輝いた。それは花の宴《うたげ》の夕にみせられた不思議とちっとも変わらなかった。その光りのなかに玉藻はすくっと起ち上がった。おどろに乱れた髪のあいだから現われた彼女の顔の悽愴《ものすご》さ――忠通は思わずぞっとして眼を伏せると、彼女はしなやかな肩に大きい波を打たせて、燃えるようなほの白い息を吐きながら、あたりを凄まじく睨《ね》めまわして縁さきへよろよろとよろめき出た。筑紫育ちの熊武はまさしく彼女を魔性の者と見て、猶予なく鉞を取り直して縁のあがり段に片足踏みかけると、その一刹那である。彼を盲にするような強い稲妻が颯《さっ》とひらめいて来て、彼のすがたは鷲に掴まれた温《ぬく》め鳥のように宙に高く引き挙げられた。
世はむかしの常闇《とこやみ》にかえったかと思われるばかりに真っ暗になって、大地は霹靂《はたたがみ》に撃たれたようにめりめりと震動した。忠通も眼がくらんで俯伏した。女たちは息が詰まって気を失った。侍どもも顔を掩って地に伏していると、黒い雲の上から庭さきへ真っ逆さまに投げ落とされたのはかの熊武の亡骸《なきがら》であった。その身体は両股のあいだから二つに引き裂かれていた。
この怪異におびやかされた人たちが初めて生き返ったように息をついたのは、それから小半※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、226−12]の後であった。松明は再び照らされて、熊武のおそろしい死骸を諸人の前に晒《さら》したときに、気の弱い女たちは再び気を失ったのもあった。忠通も暫くは声も出なかった。玉藻の姿はどこへか消え失せてしまった。
「宇治の左大臣殿お使いでござる」
早馬で屋形の門前へ乗り付けたのは、頼長の家来の藤内兵衛遠光であった。彼は玉藻の様子を見とどけるために、山科からすぐに都へ馳せ付けたのである。彼は忠通の前に召し出されて、きょうの祈祷の結果を報告すると、重ねがさねの怪異におどろかされて、忠通も大息をついた。
「ほう、その古塚は二つに裂けたか。して、塚の底には何物が埋められてあったぞ」
「人の骨、鏡、剣、曲玉《まがたま》のたぐい、それらはひとつも見付かりませぬ。ただひとつ素焼の壺があらわれました」と、遠光は説明した。
「素焼の壺……」
「打ち砕いて検《あらた》めましたら、そのなかにはひとたばの長い黒髪が秘めてござりました」
「女子《おなご》のか」
「勿論のことでござりまする。泰親はその黒髪を火に焼いて、さらに秘密の祈祷を試みました」
「ほう、それか」と、忠通は思い当たったようにうなずいた。「その黒髪の焼け失《う》すると共に、玉藻の形も消え失せたのであろうよ」
そのときには雲もだんだんに剥げて来て、陰った大空には秋の星が二つ三つきらめき出していた。
二
玉藻のゆくえは無論に判らなかった。おそらく彼女は熊武を引っ掴んで虚空《こくう》遥かに飛び去ったのであろう。いずれにしても魔女は姿を隠したのであるから、頼長の一党は勝鬨をあげて祝った。安倍泰親は妖魔を退散せしめた稀代の功によって従三位《じゅさんみ》に叙せられた。
「泰親もこれで務めを果たしたわ」
彼は初めて鏡にむかって、俄に鬢鬚《びんひげ》の白くなったのに驚いた。しかも彼に取っては一代の面目、末代の名誉である。今まで閉じられた屋敷の門は、そのあしたから大きく開かれて、祝儀の人びとが門前に群がって来た。
その賑《にぎ》にぎしい屋敷の内に只ひとり打ち沈んでいる若い男があった。それは千枝太郎泰清である。
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