ったこおろぎが真垣《まがき》の裾に悲しくむせんでいるのが微かに聞こえるばかりであった。その沈黙は玉藻が溜息の声に破られた。
「おもえば思うほど、これは難題じゃ」
「ほんにそうでござりまする」と、堀川もその声に応じて、案じ悩んだ顔をあげた。「関白殿もむごいお人じゃ。これほどの難題にわたくしどもを苦しめようとは……」
「さりとてこうなれば女子《おなご》の意地じゃ。どうなりともして詠み出さいではのう」と、安芸もひたいを皺めながら言った。
縁さきで忽ちに笑う声がきこえた。
「はは、予をむごいと言うか。久安百首にも選まれたほどの人びとが、これほどのことを詠み煩ろうては後《のち》の世の聞こえもあろうぞ」
女たちは今ここへはいって来た人にむかって、その星のような眼を一度にあつめた。人はあるじの忠通であった。忠通は半※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、222−8]《はんとき》ほども前にこの難題を女たちの前に提出して置いて、しばらく自分の居間へ立ち戻っていたが、もうよい頃と思って又出直して来ると、どの人の色紙にも短尺にも筆のあとは見えなかったので、彼はたまらないほどに興《きょう》あるもののようにそり返って笑った。
「玉藻はどうじゃ」
「わたくしにも成りませぬ」と、玉藻は面《おも》はゆげに答えた。
「玉藻の御《ご》にも成らぬほどのもの、わたくしどもにどうして成りましょうぞ」と、堀川はあぐね果てたように言った。
「玉藻にならぬとて、お身たちにならぬとも限るまいに、そりゃ卑怯じゃぞ」と、忠通はまた笑った。
しかし忠通の心の奥にはつつみ切れない満足と誇りとが忍んでいた。この女たちはみな玉藻よりも先輩で、早くから才名を知られている者どもである。したがって、玉藻に対する一種の妬みから、今日まで余り打ち解けて彼女と交わる者はなかった。それが玉藻の雨乞い以来、殊に今度いよいよ采女に召さるることに決定してから、誰も彼も争って彼女の影を慕い寄って来る。勢いに付くが世の習いとは承知していながら、忠通は決してかれらを卑しむ心にはなれなかった。彼は努めてそれを善意に解釈して、あらゆる才女もいよいよ我《が》を折って、玉藻の裳《もすそ》をささげに来たものと認めようとしていた。その意味から、今夜の歌の莚も玉藻を主人として催させたものであったが、どの女房たちも遅滞《ちたい》なしに集まって来て、いずれも年の若い玉藻に敬意を表しているのを見ると、忠通はこの頃におぼえない愉快と満足とを感じた。この夏以来の気鬱《きうつ》も一度に晴れて、彼の胸は今夜の大空のように明るく澄み渡ってきた。
「玉藻、どうじゃ。みなもあれほどに言うているぞ、お身がまずその短尺に初筆《しょふで》をつけいでは……。予が披講する。早う書け」
玉藻はやはり打ち傾いていたが、やがて低い声で上《かみ》の句を口ずさんだ。
宿すべき池は落葉に埋もれて――
これだけ言って彼女は急に呼吸《いき》をのみ込んだ。彼女は逆吊るばかりに眼じりをあげて、衝《つ》と起ち上がって縁さきへするすると出ると、今までは気がつかなかったが、明るい月は俄に陰って、重い大空はこの世を圧《お》しつぶそうとするかのように暗く低く掩いかかって来た。難題を出して得意でいた人も、この難題に屈託していた人たちも、今更のように眼を働かせて陰った大空と暗い広庭とを眺めた。虫も声をひそめたようにその鳴く音を立てなかった。
玉藻はまじろぎもしないで、だんだんに圧《お》し懸かって来るような暗い空をきっと睨みつめていると、忠通も端《はし》近く出て、ただならぬ夜の気配をおなじく窺っていた。
「ほう、やがて夜嵐でも吹き出しそうな。この春の花の宴《うたげ》のゆうべにも、このような怪しい空の色を見たよ」
彼の予言は外《はず》れなかった。弱い稲妻が彼の直衣《のうし》の袂を青白く染めて走ったかと思うと、庭じゅうの草や木を一度にゆすって、おびただしい嵐がどっと吹き巻いて来た。大きい屋形は地震《ないふる》ようにぐらぐらと揺れるので、忠通は危うく倒れかかって玉藻の手をとった。
「物怪《もののけ》の仕業であろうも知れぬ。端《はし》近う出ていて過失《あやまち》すな」
引き立てられて、玉藻はよろめきながら元の座に戻った。しかも彼女は何物をか恐れるように、蒼ざめた顔を両袖に埋めてそこに俯伏してしまった。夜嵐はひとしきりでやんだらしい。それでも暗い空はいよいよ落ちかかって来て、なにかの怪異《あやかし》がこの屋形の棟の上に襲って来るかとも怪しまれた。
「侍やある。早うまいれ」と、忠通は高い声で呼び立てた。
宿直《とのい》の侍どもは庭伝いにばらばらと駈けあつまって来た。そのなかでも近ごろ筑紫から召しのぼされた熊武という強力《ごうりき》の侍が、大きい鉞《まさかり》を掻い込んで庭さき
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