こを出た。今夜は薄い月が行く手を照らして、もう木枯らしとでもいいそうな寒い風が時どきに木の葉を吹きまいて通った。千枝太郎はその風にさからって森の方へ急いで行った。大きい杉のかげに身を寄せて、彼はゆうべと同じようにふた※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、212−5]《とき》ほども待ち暮らしたが、折りおりに落葉のころげてゆく音ばかりで、土の上には犬一匹も通らなかった。
「今夜も無駄か」
彼は失望してもう引っ返そうかと思っている時に、京の方角から牛車の軋《きし》る音がぎいぎいと遠くきこえた。木蔭からそっと首をのばして窺うと、牛飼いもない一|輌《りょう》の大きい車が牛のひくままにこちらへ徐《しず》かにきしって来た。薄い月は高い車蓋《やかた》を斜めにぼんやりと照らしているばかりで、低く這って来る牛の影も、月に背いた車の片側も、遠くからはっきりとは見えないので、さながら牛のない片輪車が自然に揺らめいて来るかとも怪しまれた。千枝太郎は身を固くして、この怪しい車の音に耳を澄ましていた。
車はだんだんに近づいて、棟の金物《かなもの》の薄くきらめくのも見えるほどになった時に、もう待ち切れなくなった千枝太郎は木のうしろから衝《つ》とあらわれて、覚束ない月の光りでその車の正体を見届けようとすると、不思議に車の轅《ながえ》は向きをかえた。かれを追う牛飼いもないのに、牛はおとなしく向き直って、元来た京の方へのろのろと歩んで行くのであった。千枝太郎はおどろいた。驚くと共に彼の疑いはいよいよ募って、なんの分別もなしに車のあとを追った。歩みの遅い牛の尻へ彼はすぐに追い付いて、右の轅に取り付きながら前すだれを無遠慮にさっと引きめくると、薄い月は車のなかへ夢のように流れ込んで、床《とこ》にすわっている女の顔を微かに照らした。
その顔をひと目見て千枝太郎は立ちすくんだ。車のぬしは三浦の孫娘の衣笠であった。衣笠が今頃ただ一人でどうしてこんな所へ来たのか。千枝太郎は自分の眼を疑うように、呆れてしばらく眺めていると、すだれはおのずからさらりと落ちて、車は再びゆるぎ出した。
「わらわに恋するなど及ばぬことじゃ。思い切れ。思い切らぬと命がないぞ」
すだれのなかでは朗《ほがら》かな声で言った。
三
なんの祈願《ねがい》か、なんの呪詛《のろい》か。殊に外出を封じられている衣笠が、この夜ふけに一人の供をも連れないで何処《いずこ》へ行くつもりであったろう。千枝太郎にはとてもその想像が付かなかった。さらに不思議なのは、その車が彼の姿をみると俄に向きを変えてしまったことである。もう一つ彼をおびやかしたのは、すだれのうちから響いた女の声であった。
わらわに恋するなど及ばぬこと――それが強い意味を含んで千枝太郎の胸にこたえた。恋か何か知らないが、彼は初めて衣笠の名を聞いたときから――初めて衣笠の顔を見た時から――彼の心はその方へ怪しく引き寄せられてゆくように思われた。彼の心は知らずしらずに妖麗の玉藻を離れて、端麗の衣笠の方へ移っていった。その秘密、彼自身すらもまだはっきりとは意識していない内心の秘密を車のぬしはとうに見破っているらしい。一種の羞恥心と恐怖心とがひとつになって、千枝太郎はもうその車を追いかける勇気を失った。彼は石のように突っ立って、だんだんに遠ざかっていく車の黒い影をいたずらに見送っていた。
車のぬしは確かに衣笠であろうか。あるいは自分の見損じで、彼女はやはり玉藻ではあるまいか。衣笠の顔と玉藻の顔と、衣笠の声と玉藻の声と、それが一つにこぐらかって、混乱した千枝太郎の頭にはもうその区別が付かなくなってきた。どう考えても衣笠が今頃ここへ来る筈がない。それがやはり玉藻であるらしく思われてきたので、彼はもう一度その正体を見極めたくなって、大胆に再びそのあとを追おうとすると、彼の踏み出した足はたちまち引き戻された。何者にか、その袖をしっかりと掴まれているのであった。
「千枝太郎、待ちゃれ」
それが師匠の声であることは、この場合にもすぐに覚えられたので、彼はあわてて捻じ向くと、自分の袖を掴んでいるのは兄弟子の泰忠であった。そのそばには播磨守泰親も立っていた。
「千枝太郎。あっぱれの働きをしてくれた」と、泰親は自分の足もとにひざまずいている弟子をみおろしながら言った。「もう追うには及ばぬ。正体はたしかに見とどけた。お身の訴えを泰忠から聴いて、泰親自身で様子を探りにまいった。よう教えてくれた。かたじけないぞ。これで正体もみな判った」
師匠はひどく満足したらしい口吻《くちぶり》であるが、弟子にはそれがよく判らなかった。千枝太郎は怖るおそる訊いた。
「して、あの車のぬしは何者でござりましょう」
「お身の眼にはなんと見えた。あれは紛《まぎ》れもない玉藻じゃ」
前へ
次へ
全72ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング