「玉藻でござりましょうか」
「彼女《かれ》でのうて誰と見た。三浦の娘などと思うたら大きな僻目《ひがめ》じゃ」と、泰親は意味ありげにほほえんだ。
千枝太郎は再びおびやかされた。師匠も自分の胸の奥を見透かしているらしいので、彼は重い石に圧《お》し付けられたように、頭をたれたまま小さくうずくまっていた。
「もう夜が更《ふ》けた」と、泰親は陰った月の陰を仰いだ。「わしはすぐに屋敷へ帰る。千枝太郎も一緒に来やれ」
改めてなんの言い渡しはなくとも、これで彼の勘当はゆるされたのである。千枝太郎はよみがえったように喜んで、泰忠と一緒に師匠の供をして京へ帰った。帰るとすぐに、泰親はこの二人のほかに優れた弟子の二人を奥へ呼び入れた。いずれも河原の祈祷に幣《へい》をささげた者どもである。師匠は四人の弟子たちに言い聞かせた。
「千枝太郎の訴えで何もかもよく判った。かの古塚へ夜な夜な詣る怪しの女はまさしく玉藻に極わまった。察するところ、かの古塚のぬしが藻《みくず》という乙女《おとめ》の体内に宿って、世に禍いをなすのであろう。就いては泰親の存ずる旨あれば、夜があけたら宇治の左大臣殿にその旨を申し立て、かの古塚のまわりに調伏の壇を築いて、かさねて降魔の祈祷を試むるであろう。鳥を逐わんとすればまずその巣を灼《や》くというのはこの事じゃ。今度こそは大事の祈祷であるぞ。ゆめゆめ油断すまいぞ」
有明けのともしびに照らされた師匠の顔は、物凄いほどに神々《こうごう》しいものであった。昼夜を分かたぬ連日の祈祷に痩せ衰えた彼の顔も、今度は輝くばかりに光っていた。四人の弟子も感激して師匠の前を引き退がったが、泰親の居間には明るい灯があかつきまで消えなかった。
弟子たちは自分の部屋へ戻ってうとうとしたかと思うと、忽ちに師匠の声がきこえた。
「もう夜が明けたぞ。泰忠は早く支度して宇治へまいれ。早う行け」
「心得ました」
泰忠はすぐに跳ね起きて屋敷を出て行った。いつもならばこの使いは自分に言い付けられるものをと、千枝太郎は羨ましいような心持で門《かど》まで見送って出た。東がすこし白んだばかりで、深い霧の影が大地を埋めているなかを、泰忠が力強く踏みしめて歩んでいくのが、いかにも勇ましく頼もしく思われて、千枝太郎も一種の緊張した気分になった。
この時代の人が京から宇治まで徒歩《かち》で往き戻りするのであるから、帰りの遅いのは判り切っているので、千枝太郎は彼の戻って来るまで山科へ一度帰りたいと思った。
「ゆうべ出たぎりで、叔父や叔母も定めて案じておりましょう。昼のうちに立ち帰って、この次第を語り聞かせとう存じまするが……」と、彼は師匠の前に出て願った。
「もっとものことじゃ。叔父叔母にもよう断わってまいれ」
師匠の許しをうけて、千枝太郎は土御門の屋敷を出た。その途中で彼は又、あらぬ迷いが湧いて来た。自分もいったんはそう疑い、師匠は確かにそう言い切ったのであるが、車のぬしは果たしてかの玉藻であろうか。自分の見た女の顔はどうも衣笠に似ているらしく、殊にその身内からはなんの光りも放っていなかった。勿論、この場合には、自分の目よりも師匠の明らかな眼を信じなければならないと思いながらも、彼はまだ消えやらない疑いを解くために、その足を七条の方角へ向けた。
三浦の屋敷へ行って、家来に逢ってきくと、やはりきのうと同じ返事で、その後なんにも変わったことはないと言った。
「娘御はゆうべ何処《いずこ》へかお忍びではござりませぬか」と、千枝太郎はそれとなく探りを入れてみた。
「なんの、お慎みの折柄じゃ。まして夜陰《やいん》にどこへお越しなさりょうぞ」と、家来は初めから問題にもしないように答えた。
これを聞いて千枝太郎も安心した。もう疑うまでもない。車のぬしを衣笠と見たのは自分の僻目《ひがめ》で、彼女はやはり玉藻であったに相違ない。それにしては、わらわに恋するなど及ばぬこと――この一句の意味がよく判らなかった。玉藻は自分の方から一度首尾して逢うてくれとたびたび迫り寄って来るのでないか。それがまことの恋であるかないかは別問題として、思い切らねば命を取るとまで言い放すのは余りにおそろしい。千枝太郎はいろいろにその問題をかんがえた。
三浦の屋敷にあらわれた怪しい上臈は、衣笠にむかって早く故郷へ帰れと言った。ゆうべの怪しい女は、自分にむかって恋を思い切れと言った。それとこれを綴りあわせて考えると、玉藻は自分の心が衣笠の方へひかれていくのを妬んで、いろいろの手だてを以って彼女を嚇《おど》し、あわせて自分を嚇そうとするのであろう。ゆうべも衣笠の姿を自分に見せて、衣笠の口真似をして自分を嚇したのであろう。
こうだんだんに煎じつめて来ると、玉藻はどう考えても魔性の者である。もう寸分も疑う余地はないのである
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