にかさこそ[#「かさこそ」に傍点]と鳴っていた。それを仰いでいるうちに、言い知れない悲しさと懐かしさとが胸いっぱいになって、彼の眼はおのずとうるんできた。彼は思わず土にひざまずいて、よそながら師匠に無沙汰の罪を詫びていると、その頭の上で不意に彼の名を呼ぶ者があった。おどろいて振り仰ぐと、それは兄弟子の泰忠《やすただ》であった。
「お身がもとの烏帽子折りになったということは、よそながら聴いていた。どうじゃ、変わることはないか」
 久し振りで兄弟子の優しい声を聴いて、千枝太郎はいよいよ悲しくなった。彼はにじみ出す涙を両袖で拭きながら答えた。
「お身も変わることが無うて何よりじゃ。御勘当の身では何をすべきようもないので、よんどころなしに旧《もと》のなりわい、むかしの朋輩《ほうばい》に顔を見らるるも恥ずかしい。して、お師匠さまはどうしてござる」
「その後も悪魔の調伏に心を砕《くだ》いて、夜も碌々にお眠りなさらぬ」と、泰忠も声をくもらせて言った。「それに付けても口惜しいのは、悪魔のいよいよはびこることじゃ。お身はまだ知らぬか、玉藻はいよいよ采女《うねめ》に召さるるというぞ」
 さきごろ関白忠通から正式に玉藻を采女に推薦した。それに対して、頼長は相変わらず強硬に反対したが、忠通は頑として肯《き》かなかった。何分にもこの前とは違って玉藻は雨乞いの奇特《きどく》を世に示して、その名はもう雲の上までも聞こえている。相手にはそういう強味がある上に、頼長が唯一《ゆいいつ》の味方と頼む信西入道がなぜか今度は不得要領で、木にも付かず草にも付かぬというあいまいの態度を取っているので、味方はいよいよ影が薄い。蔭では兄の文弱を日ごろ罵り卑しめている頼長も、さすがに殿上で顔を向き合わせては、有る甲斐なしに兄を言い破るわけにもいかない。もうひとつには、玉藻の三井寺詣でを待ち受けて、遠矢に掛けようとした事も忠通に知られている。そういう事情がいろいろからんでいるので、彼は肚《はら》の中では苛《いら》いらしながらも、正面の論戦ではどうも思うように闘うことが出来ない。かたがた殿上の形勢は相手方の勝利にかたむいて、玉藻はいよいよ采女に召さるることに決まるらしいと、泰忠は残念そうに話した。
「もうこの上はお師匠さまの力一つじゃと、左大臣どのも仰せらるる。お師匠さまも昼夜の祈祷に、やがて精も根も尽き果てらりょうかと案じらるるほどじゃ。我らとても同様の苦労、察しておくりゃれ」と、泰忠は蒼ざめた唇をゆがめながら言った。
「そりゃ容易ならぬことじゃ」と、千枝太郎もはらわたから絞り出すような溜息をついた。「それに就いてわしも思い当たることがある。子細はこうじゃ」
 彼は兄弟子の耳に口をよせて、かの古塚のことや三浦の屋敷のことをささやくと、泰忠は眼をみはりながら聴いていた。
「むむ、よいことを教えてくれた。三浦のことはお師匠さまもわれわれも承知じゃが、古塚の怪異《あやかし》はまだ聞かぬ。よい、よい、きっとお師匠さまに申し上ぐる。お身もこれを功に御勘当が赦《ゆる》さりょうも知れぬ。この上にも心をつけて働いておくりゃれ。頼んだぞ」
 兄弟子から鋭《するど》く励まされて、千枝太郎のしおれた魂も俄に勇んだ。彼はきっとその怪異を探り出すことを泰忠に誓って別れた。彼はもう悠々と京の町などをうろついてはいられないので、山科の家へ急いで帰った。
「きょうもくたびれ儲けか」と、なんにも知らない叔母は笑っていた。「したが、そのうちにはおのずとなりわいの道も覚えて来る。必ず倦きてはならぬぞよ」
 気のよい叔母は彼の不働きを責めようともしないので、千枝太郎は幾らか気安く思った。そうして今夜こそは自分の務めを果たさなければならないと、張りつめた心を抱えて夜の更《ふ》けるのを待っていたが、どうも落ち着いてはいられないので、彼はゆうべよりも早く家を出て、陶器師の翁をたずねた。
「翁《おきな》よ。少し頼みがある。わしを小町の水の森へ案内してくれぬか。身内から光りを放った女が通り過ぎたというのはどのあたりか、案内して教えてくれ」
 途方もないと言うように、翁はしばらく黙って相手の顔を見つめていたが、やがて思い出したようにその手をゆるく振った。
「ならぬことじゃ。くどくもいう通り、塚の祟りがおそろしいとは思わぬか」
「いや、それを見とどけたらわしも出世する。翁にも莫大の御褒美を貰うてやる。どうじゃ、それでも頼まれてくれぬか」
「はて、出世も御褒美も命があっての上のことじゃ。ましてわしも人づてに聞いたばかりで、詳しいことはなんにも知らねば、いくら頼まれてもその案内が出来ようぞ。どんな出世になるか知らぬが、お身もやめい。あのような所へは行くものではないぞ」
 いくら強請《せが》んでも動きそうもないので、千枝太郎もあきらめてそ
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