んとに早い。婆めが死んでからもう四年目になる」と、翁はすこし寂しそうな顔をして言った。
 自分と仲悪の婆の死――それが藻と何かの因縁があるらしく考えられるので、千枝太郎は何げなく翁に訊いた。
「婆どのが死んで四年目になるか。婆どのはあのような怪しい死にざまをして、今にその子細は判らぬかの」
 その後になんの不思議もなかったかという問いに対して、翁はこう答えた。
「さあ、不思議というほどのことは……。いや、たった一度あった。おお、たしか去年の秋……やはり丁度今頃のことじゃと覚えている。お前も識っているであろう。この村の弥五六という男……。あの男が暗い夜に、小町の水の近所を通ると、ここらには珍しい美しい上臈《じょうろう》が闇のなかを一人でたどってゆく。いや、不思議なことには、その女のからだから薄い光りがさして、遠くからでもその姿がぼんやりと浮いて見えたそうな。弥五六もあまりの不思議にそっと後をつけてゆくと、女の姿はあの古塚の森の奥へ消えるように隠れてしもうた」
 千枝太郎は息をつめて聴いていた。
「弥五六もぞっとして逃げて帰った。あくる日近所の者にその話をすると、皆もただ不思議じゃと言うばかりで、その子細は誰にも判らなんだ。すると、その晩のことじゃ。弥五六は急に死んでしもうた。丁度わしの婆と同じように、喉を喰い裂かれて……」
「その上臈はどんな顔かたちであったかな」と、千枝太郎は忙がわしく訊いた。
「それは知らぬ。わしが見たのでない、唯その話を人から聞いたまでじゃ」と、翁はおちつき顔に答えた。「しかしわしの考えでは、それが古塚のぬしであろうも知れぬ。うかと出逢うたが弥五六の不運じゃ。それに懲りてこの頃では、日が暮れてからあの森の近所を通り過ぎるものは一人もないようになった」
「不思議じゃのう」
「不思議というよりも怖ろしい。お前も心してその祟りに逢わぬようにおしやれ。婆や弥五六がよい手本じゃ」
 その上臈がもしや玉藻ではないかという疑いが、千枝太郎の胸にふと湧き出した。果たしてそうならば、藻は塚のぬしに祟《たた》られて、その魂《たましい》はもう入れ替わっているのである。たといその形はむかしの藻でも、今の玉藻の魂には悪魔が宿っているのである。彼はその疑いを解くためにこれから毎晩その森のあたりに徘徊して、怪しい上臈の姿を見とどけたいと思った。そうして、それを一つの手柄にして、彼は師匠の勘当をゆるされようと考えたのであった。
 翁との話はここらで打ち切って、千枝太郎は早々にここを出た。出る時に、彼は再び隣りの柿の梢をみあげると、その高い枝は青い大空を支えているように大きく拡がって、ところどころにはもう薄紅い光沢《つや》をもった木の実が大きい鈴のように生《な》っていた。幼い藻の顔と臈たけた玉藻の顔とが一つになって、彼の眼さきを稲妻のようにひらめいて通った。
「あきないが遅うなる」
 千枝太郎は京の方角へ足を向けた。
 むかしの相弟子や知りびとに顔をあわせるのがさすがに辛《つら》いので、彼はこれまで京の町へは商売《あきない》に出なかったが、商売はどうでも京の町にかぎると叔父からも教えられ、自分もそう覚《さと》ったので、きょうは思い切って繁華な町の方へ急いで行った。その目算は案外に狂って、顔馴染みのない若い職人をどこでも呼び込んでくれないので、彼はひどく失望した。一日根気よく呼びあるいても、彼は京の町で一文も稼ぐことは出来なかった。
 九月はじめの秋の日は吹き消すようにあわただしく暮れかかって、うすら寒い西山おろしが麻の帷子《かたびら》にそよそよと沁みて来たので、千枝太郎はいよいよ心寂しくなった。こうと知ったら京の町まちへ恥がましい顔をさらして歩くのではなかったものをと悔やみながら、疲れた足を引き摺ってとぼとぼと戻ろうとすると、六条の橋の袂で呼び止められた。
「烏帽子折りか。頼みたい」
 振り返ると、それはもう六十に近い、人品のよい武士で、引立《ひきたて》烏帽子をかぶって、萌黄と茶との片身替わりの直垂《ひたたれ》を着て、長い太刀を佩《は》いていた。彼は白い口髯の下から坂東声《ばんどうごえ》で言った。
「それがしはこのごろ上《のぼ》った者じゃで、都の案内はよう存ぜぬが、見るところ烏帽子折りであろう。頼まれてくれぬか」
「心得ました」
 そこですぐに荷をおろすと、武士は一人の家来を見かえって、その烏帽子が折れたら受け取って来いと言い付けて、自分はそのままに行き過ぎてしまった。
「手もとは暗うはないかな」と、あとに残された家来は千枝太郎の手もとを覗きながら言った。
「いえ、烏帽子一つ折るほどの間《ひま》はござりましょう」と、千枝太郎は手を働かせながら答えた。
「して、お前さま方は坂東の衆でござりまするか」
「おお、相模《さがみ》の者じゃよ」と、家来
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