おそばにいてはわしのためにならぬ。家《うち》へ帰れと仰せられた」
「なぜかのう」と、翁は再び首をかしげた。「じゃが、お師匠さまがそう言わるれば、それも是非ない。して、これからはどうおしやる。叔父御も次第に年が寄って、この頃は思うように稼業もならぬと言うていた。お前の戻って来たは丁度幸いかもしれぬ。若い者はせいぜい働いて、叔父御や叔母御に孝行おしやれ。のう」
「おお、わしもそのつもりでこの頃は稼ぎに出る。あれを見やれ」
 彼は表を指さすと、門口《かどぐち》に烏帽子折りの荷がおろしてあった。翁はうなずいた。
「おお、よい、よい。昔の千枝ま[#「ま」に傍点]とは違うて、今では立派な若い男じゃ。まして子供の時から習いおぼえた職もある。怠らず稼いだら不自由はせぬ筈じゃ」
 物に屈託しない翁は心から打ち解けたような笑顔を見せて、昔の千枝ま[#「ま」に傍点]と懐かしそうに話していた。千枝太郎もなつかしそうな眼をして家の中を見まわすと、今向かい合っている小さい窯《かま》も、奥に切ってある大きい炉《ろ》も、落ちかかっているように傾いた棚も、すべて昔のさまとちっとも変わっていなかった。秋の日を浴びている翁の寂《さ》びたひたいにも皺の数が殖えていないらしかった。物静かな山科郷の陶器師の家には、月日の移り変わりというものがないようにも思われた。それにひきかえて、久安四年から仁平二年――この足かけ五年のあいだに、自分の身の上はどう変わったか。千枝太郎は振り返って考えた。
 叔父の職を見習って、烏帽子折りになるはずの彼は、藻《みくず》に振り放されたのが動機となって、日本に隠れのない陰陽博士の弟子となった。そうして、師匠にも可愛がられた。自分が未来の出世も眼に見えるようであった。その幸いも長くは続かないで、この三月に偶然かの玉藻にめぐり逢ってから、今まで消えかかっていた思いの火が再び胸に燃えあがった。師匠にも諭《さと》され、自分も戒めて、魔性の疑いある彼女と努めて遠ざかろうと試みたが、その因縁は不思議にからみ付いて、幾たびか彼女にめぐり逢う機会が偶然に作られた。そのたびごとに怪しく掻き乱される自分の心を危うくも取り留めようとしながら、所詮《しょせん》はひと足ずつに彼女の方へ引き寄せられて行くらしいのを、神のような師匠の眼に観破られて、彼はついに慈悲の勘当を言い渡された。今さら詫びても肯き入れる師匠でないのを知っているので、彼はすごすごとそこを立ち退いて昔の山科の家に戻った。
 戻ってみると、叔父や叔母の老いの衰えが今さらのように彼の眼についた。千枝太郎は悲しくなった。師匠の勘当をうけて来た甥を叔父や叔母はさのみ叱りもしないで、かえって懐かしそうに迎えてくれたので、彼はいよいよ涙ぐまれた。足かけ五年のあいだ、師匠の教えをうけた学問はありながら、勘当された今の身の上では、それを表向きの職として世に立つことは出来ない。さりとてもう一人前の若い者が、手を袖にして叔父や叔母の厄介にもなっていられないので、差しあたっては昔の烏帽子折りに立ちかえって、ちっとでも叔父の手助けをしたいと彼は思った。叔父も喜んで承知した。千枝太郎はその以来、叔父と一緒に商売《あきない》に出ることもある。自分ひとりで出ることもある。こうしてもう小ひと月を送っているうちに、彼もだんだんに仕事に馴れて来て、朝に家《うち》を出て暮れ方に戻れば、きっと幾らかの銭を持って来るので、年をとった叔父や叔母はよい稼ぎ人の戻ったのを、むしろ喜んでいるくらいであった。
 これがおれの運かもしれない。せめてこうしているあいだに精ぜい働いて、叔父や叔母に孝行を尽くそうと、彼もこの頃ではあきらめた。師匠のこと、玉藻のこと、それが胸いっぱいに支《つか》えているのを、彼は努めて忘れようとしていた。
 きょうもそれをうっかりと考えていると、翁は日影がだんだん映《さ》しこんで来るのにまぶしくなったらしい。だるそうに立ちあがって入口の蒲《がま》すだれをおろした。
「千枝ま[#「ま」に傍点]よ。なにを思案している。叔父御や叔母御もお前が戻ったので喜んでいよう。むかし馴染みが帰って来てわしも嬉しい。これからは今までのように遊びに来ておくりゃれ。よいか。あれ、お見やれ。となりの門《かど》の柿の実は年ごとに粒が大きくなって、この秋も定めて美事に熟《う》れることであろうよ」
「そうであろうのう」
 ここの門《かど》に立った時に、千枝太郎もすぐに隣りの梢を仰いだのであった。実がまだ青いので、そこに大きい鴉《からす》の影はみえなかったが、彼は藻と一緒になってその梢の憎らしい鴉を逐《お》った秋を思い出さずにはいられなかった。今も翁からそれを言い出されて、彼は蒲すだれの外をのぞきながら低い溜息を洩らした。
「月日のたつのは早いものじゃのう」
「ほ
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