直接には別になんの禍いもなかった。しかし、玉藻は決してそれを無事に済まそうとはしなかった。彼女は京へ帰って、三井寺の一条を忠通に逐一訴えた。
「予の代参というそちに対して山門内に通さぬと申し、あまつさえこちらがおとなしゅう戻ろうとするのをうしろから遠矢を射かくるなど、言語道断の狼藉じゃ。頼長め、いよいよ気が狂うたと見ゆる。もう一刻も捨て置かれぬ。おのれ、おのれ、兄の足もとに踏みにじって、宇治の屋形を草原にしてみしょうぞ」と、忠通は自分も狂ったように罵った。
「ではござりましょうが、今しばらくの御勘弁を……」
「又しても止むるか。仇を庇《かぼ》うか……」
「庇うのではござりませぬ。たといかの人びとが如何ようにわたくしどもを亡ぼそうと巧《たく》まれましても、邪は正に勝たずの例《ためし》で、正しいものには必ず神ほとけの守りがござります。現にさきの日の雨乞いを御覧なされませ。われに誠の心があれば、神も仏も奇特を見せられまする」
「さればとてもう堪忍の緒が切れた。堪忍にも慈悲にも程度《ほど》がある。頼長と忠通とは前《さき》の世からのかたき同士であろう。弟を仆《たお》すか、兄が仆るるか、しょせん二人が列《なら》んでゆくことは出来ぬ定めじゃ」
「では、どうでも左大臣どの御誅伐でござりまするか」と、玉藻は不安らしく訊いた。
「勿論のことじゃ」
「して、お味方は……」
 この問題に出遇って、忠通はいつも行き詰まるのであった。この夏の引き籠り以来、自分の味方のだんだんに遠ざかって行くのは、見舞いの人の数が日増しに減るのを見てもよく判っていた。背《そむ》いた味方はみな頼長の傘の下にあつまるのであろう。それを思うだけでも、忠通の胸は沸き返った。
「きのうの味方もきょうの仇《かたき》、頼もしゅうない世の中じゃ。忠通が頼長誅伐を触れ出しても、味方にまいる者は少ないかのう」と、彼はこの世を呪うように物凄い溜息を長くついた。
 きのうの味方がきょうの仇と変わる世の中だけに、また都合の好いこともあると、玉藻は慰めるように言った。そういう人間が多いだけに、いったんこっちの羽振りがよくなれば、昨日のかたきは又すぐ今日の味方に早変わりをするのである。正直のところ、現在の殿上人に骨のある人間は極めて少ない。信西入道とても日和見《ひよりみ》の横着者である。つまりがなんらかの方法でかの頼長の鼻をくじいてさえしまえば、余の人びとは手の裏をかえしたようにこちらの味方になるのは見え透いている。なにも仰々しく誅伐の誅戮のと騒ぎ立てるには及ばないのであると、彼女は事もなげに説き明かした。
「就きましては、かの采女《うねめ》に召されますること、いかがでござりましょうか」
「その儀ならば懸念すな。今度こそはかならず成就じゃ」と、忠通は得意らしい笑みを洩らした。
 先度は頼長や信西の故障に出遇《であ》って、結局はうやむやのうちに葬られたのであるが、今度はそうはならない。玉藻が雨乞いの奇特をあらわしたことは雲の上までもきこえ渡っている筈である。その玉藻を推薦するのになんの故障があろう。たとい彼らがあくまでも強情を張ったところで、その理屈はもう通らない。彼らの理屈を蹴散らすだけの立派な理屈がこちらにもある。頼もしくもない味方を無理に駆り集めて、頼長らをほろぼそうとあせり狂うよりも、一人の玉藻を采女にすすめて、その力で敵を押したおす方が安全で且《か》つ有効であるらしいと、忠通もまた思い返した。
「予が受け合うた。大納言など頼んでいては埒があかぬ。近日のうちに、忠通が病気を押して昇殿する。とこうの故障を申し立つる者があったら、予が直きじきに言い伏せて見する。はは、今度こそ……今度こそはじゃ」
 忠通は気味の悪いような声を出して、のけぞりながら高く笑った。玉藻のひとみも怪しくかがやいた。

    三

「ほう、千枝ま[#「ま」に傍点]よ。いつ戻ったぞ」
 陶器師《すえものつくり》の翁《おきな》は笑いながら見返った。彼は手づくりの壺《つぼ》をすこし片寄せながら、狭い仕事場の入口に千枝太郎を招き入れた。
「この頃は家《うち》に戻っているとかいう噂を聞いたが、なぜ早う訪ねて来てはくれぬ。婆めは死ぬ。隣りの藻の家は引っ越してしもうて馴染みの薄い人が移って来る。ここらでも四年五年といううちには、住む人がだんだんに移り変わって、むかし馴染みの減るのが寂しい。して、お前はなぜお師匠さまの屋敷から戻って来た。都の奉公はつらいかの」
 千枝太郎は黙って、すだれの隙き間からさし込む秋の日が仕事場のぬれた土を白っぽく照らしているのを眺めていたが、やがて沈んだ声で言った。
「わしはお師匠さまから勘当《かんどう》された」
「勘当……」と、翁も白い眉に浪を打たせた。「なんぞ過失《あやまち》でもおしやったか」
「お師匠さまの
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