えると、遠光は苦《にが》い顔をして言った。
「唯今は宇治の左大臣殿御参詣でござる。誰人《たれびと》にもあれ、山門の内へ罷《まか》り通ること暫く御遠慮めされ」
ゆく手をさえぎられて、玉藻の供もむっとした。この青糸毛が眼に入らぬかというように、かれらは牛車を見かえって答えた。
「唯今も申す通り、これは関白殿御代参でござるぞ。邪魔せられまい」
そっちの糸毛ばかりをひけらかして、こっちの紫糸毛が見えぬかというように、遠光も自分の牛車をあごで示しながら言った。
「関白殿の御牛車《みくるま》と申されても、それは代参、殊に女性《にょしょう》じゃ。しばらくの御遠慮苦しゅうござるまい」
口でおだやかに言いながらも、すわといわば相手の轅《ながえ》を引っ掴んで押し戻しそうな勢いで、遠光は牛車の前に立ちはだかっていた。
紫糸毛の牛車のそばには、遠光のほかに逞しい侍が七、八人も控えていて、肉に食い入るほどに烏帽子の緒をかたく引き締めたあごをそらせて、こっちをきっと睨みつめていた。中にはその手をもう太刀の柄《つか》がしらにかけている者もあった。そのていが最初から喧嘩腰である。人数は対等でも、玉藻の供は相手ほどに精《え》り抜いた侍どもではなかった。不意にこの喧嘩を売り掛けられて、彼らはすこしく怯《ひる》んだ。
それにつけても、当人の玉藻がなんと言い出すかと、敵も味方も眼をあつめてその顔色をうかがっていると、玉藻はやがてしずかに言った。
「ほほ、これは異《い》なことを承りまする。御代参とあれば関白家も同じこと、弟御《おとうとご》の左大臣どのから遠慮のお指図を受きょう筈はござりませぬ」
彼女は供の侍を見かえって、一緒に来いと扇でまねいた。招かれて彼らはそのあとに続こうとするのを、遠光はあくまでもさえぎった。
「なり申さぬ。われわれここを固めている間は、ひと足も門内へは……」
「ならぬと言わるるか」
「くどいこと。なり申さぬ」
「どうでもならぬか」と、玉藻もすこし気色《けしき》ばんだ。
遠光はもう返事もしないで、相手の瞳《ひとみ》を一心に睨んでいると、玉藻はなんと感じたか俄に扇でそのおもてを隠しながら高く笑った。彼女は眉をあげて山門の方をあざけるように見返りながら、再びしずしずと牛車の※[#「※」は「車へんに非」、187−7]《はこ》にはいって、そうして、牛車を戻せと低い声で命令すると、牛はやがてのそのそと動き出して、轅《ながえ》は京の方角へむかって行った。
と思うと、白羽の矢が一つ飛んで来て、青糸毛の車蓋《やかた》をかすめてすぎた。その響きにおどろかされて供の侍どもはあっと見かえると、二の矢がつづいて飛んで来て、その黒い羽は後廂《うしろびさし》の青いふさを打ち落として通った。
「や、遠矢《とおや》じゃ。さりとは狼藉……」
立ちさわぐ侍どもを玉藻は簾のなかから制して、牛車の大きい輪は京をさして徐《しず》かに軋《きし》って行った。その青い影のだんだんに遠くなるのを見送りながら、山門のかげから頼長が出て来た。あとに続いて弓矢を持った二人の侍があらわれて、いずれも残念そうに唇を噛んでいた。玉藻がきょうの参詣を知って、頼長は先き廻りをして先刻からここに待ち受けていたのである。遠光は主人の内意をうけて、わざと玉藻のゆく手をさえぎって無理無体に喧嘩を仕かけ、関白家の供のものを追っ払った上で、玉藻をここで討ち果たしてしまおうという心組《こころぐ》みであった。頼長のそばには藤内太郎、藤内次郎という屈竟《くっきょう》の射手《いて》が付き添うていて、手にあまると見たらばすぐに射倒そうと、弓に矢をつがえて待ち構えていた。頼長は勿論、射手の二人も山門のかげに身を忍ばせていたのであるが、早くも玉藻に覚られたらしい。彼女はこちらの裏をかくようにあざけりの笑みをくれて、徐《しず》かにここを立ち去った。この機会を取り逃してはならぬと、頼長の指図で二人はすぐ牛車のうしろから射かけたが、二人ながら不思議に仕損じた。あわてて二の矢をつがえようとすると、弓弦《ゆづる》は切れた。牛車はそれを笑うように、輪の音を高く軋らせながら行き過ぎてしまった。
眼《ま》のあたりにこのおそろしい神通力を見せられて、射手の二人も遠光も息をのんで立ちすくんでいた。頼長は一人で苛《いら》いらしていたが、驚きと恐れとに脅《おびや》かされている家来どもをいかに叱り励ましても、しょせんはその効はあるまいと思われた。
「悪魔めをこの山門内に踏み入れさせなんだが、せめてもの事じゃ」
こうあきらめて頼長も宇治へ帰った。さきの雨乞いといい、きょうの待ち伏せといい、一度ならず二度までも仕損じた彼は、さすがに胸が落ち着かなかった。彼も悪魔の復讐を気づかって、その夜から宿直《とのい》の侍の数を増してひそかに用心していたが、
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