げ》ばらや生官人《なまかんにん》どもとは違って、少納言入道信西は博学宏才を以って世に認められている。殊更に党を組み、ひとにおもねって、自分の地位にかじり付いている必要はない。忠通が勝っても、頼長が勝っても、あるいはこの兄弟が相討ちになっても、自分の地位は容易に動かないものと彼はみずから信じていた。
 こうした強い自信をもっている彼の眼から観れば、どちらの味方をして働くのも無用の努力であるように思われた。彼はなるべく事なかれ主義を取って頼長と忠通とのあいだを弥縫《びほう》するか、もしそれが出来そうもないと見きわめた暁《あかつき》にはそっと手を引いて、両方の争いを遠く見物しているのが、最も賢い、最も安全の処世法であるように思われた。しかしこの場合、結局黙っては済まされないとみて、老獪《ろうかい》の彼は巧みに逃げを打った。
「さりながらその禍いがすでにあらわれましたる以上は、まずそれを鎮むる工夫が先きでござりまする。その禍いを見て諸人が悔いあらたむれば天下はおのずから泰平、二度の禍いのあらわりょう筈はござりませぬ」
「それもそうじゃな」と、頼長は渋《しぶ》しぶうなずいた。彼も差しあたってはそれを言い破るほどの理屈をもっていないらしかった。
 二人はしばらく詞《ことば》が途切れた。秋草を画いた几帳《きちょう》が昼の風に軽くゆれて、縁さきに置いてある美しい蒔絵《まきえ》の虫籠できりぎりすがひと声鳴いた。
「殿。ただいま戻りました」
 年頃は三十二、三の、これも主人とおなじような鋭い眼をもった小ざかしげな侍が、縁さきに行儀よくうずくまった。
「ほう、兵衛か。近う寄れ」
 頼長にあごで招かれて、藤内兵衛遠光《とうないひょうえとおみつ》は烏帽子のひたいをあげた。彼は信西入道を仰ぎ見て、更にうやうやしく式代《しきだい》した。
「どうじゃ。洛中洛外に眼に立つほどの事どももないか」と、頼長はしずかに訊いた。
 遠光は頼長が腹心の侍で、宇治と京とのあいだを絶えず往来して、およそ眼に入るもの、聞こゆるもの、大小となく主人に一いち報告する一種の物聞《ものぎ》きの役目を勤めていた。頼長は彼の報告によって、居ながらに世のありさまを詳しく知っているのであった。
「玉藻の御《ご》があすは三井寺《みいでら》参詣とうけたまわりました」
「玉藻が三井寺に参詣するか」
 頼長と信西とは眼をみあわせた。
「山門《さんもん》と三井寺とは年来の確執じゃ。その三井寺に参詣して法師ばらを唆《そその》かし、世の乱れを起こそうとてか」と、頼長は何事も見透かしたようにあざ笑った。「さりながらこれは大事じゃ。山門の荒法師も手をつかねて観てもいるまい。又しても山門と三井寺の闘諍《とうじょう》、思えば思えば浅ましさの極みじゃ」
 叡山《えいざん》と三井寺の不和は多年の宿題で、戒壇建立の争いのためには三井寺の頼豪阿闍梨《らいごうあじゃり》が憤死して、その悪霊が鼠になったとさえ伝えられている。その三井寺へ魔女の玉藻が参詣して、いかなる禍いの種を播《ま》こうとするのか。
 しょせんは三井寺の僧徒を煽動して叡山に敵対させ、かれらを執念く啖《く》い合わせて、仏法の乱れ、あわせて王法の乱れを惹き起こす巧みであろう。こう思うと、信西の嶮しい眉も食い入るばかりに顰《ひそ》んできた。
「彼女《かれ》の悪業、いやが上に募ってまいっては、いよいよ油断がなり申さぬ」
「そうじゃ。まだこの上に何事をたくもうも知れぬ」と、頼長も奴袴《ぬばかま》の膝を強く掴んだ。「のう、入道。この上は重ねて七十日の祈祷《いのり》などおめおめと待ってはいられまい。泰親にもその旨を申し含めて、早急にかれめを祈り伏する手だてが肝要であろうぞ」
 この点に就いては、信西も勿論、同意であった。
「仰せごもっとも、それがしも肝胆を砕いて、一日も早く妖魔をほろぼす手だてを案じ申そうよ」

    二

 八月十一日は晴れていた。それでも先日の大雨以来、明るい日の色も俄に秋らしくなって、藍《あい》を浮かべたような湖《みずうみ》の上を吹き渡って来る昼の風も、たもと涼しくなった。
 青糸毛《あおいとげ》の牛車《くるま》が三井寺の門前にしずかに停まると、それより先きに紫糸毛の牛車が繋がれていた。あとから来た青糸毛のうしろに、黒塗りの鷺足の榻《しい》が据えられて、うしろ簾《すだれ》がさやさやと巻きあげられると、内から玉藻の白い顔があらわれた。折りからそよそよと吹いて来る秋風に袴の緋を軽くなびかせて、彼女は牛車からしなやかに降り立つと、門前にたたずんでいた一人の侍がつかつかと歩み寄って来た。侍は藤内兵衛遠光であった。
「お身は三井寺御参詣か」と、遠光は会釈しながら訊いた。
 玉藻の供の侍には遠光を見識っている者どももあった。関白家御代参として玉藻が参詣を彼らが答
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