》へ忍んでまいりました」
「赦免の訴えか」
「いや、今一度、降魔の祈祷《いのり》を……」
「むむ」と、頼長は烏帽子をかたむけた。「して、入道にはなんとお見やる」
「それがしの愚意を申そうならば、泰親の訴えを聞こしめされ、繰り返して今一度、七十日の秘密の祈祷を……」
泰親の不覚は重々であるが、さりとて今この都はおろか、日本国じゅうを見渡しても、この役目を勤めるものは彼のほかにない。彼も今度の不覚を恥じて、定めて懸命の秘法を凝らすに相違あるまいと考えられるから、枉《ま》げてもう一度、彼の願意を聴きとどけてやりたい。さてその上で、どうでも成らぬものは成らぬとあきらめて、さらに工夫の仕様もあろう。ともかくももう一度は――と、信西は根気よく繰り返して説いた。
忙しそうにまばたきしながら、頼長はその長ながしい説明をじっと聴き澄ましていたが、やがて覚ったようにうなずいた。
「よい。泰親が願意、聴きとどけて取らせ申そう。但《ただ》しこれを仕損じたら彼は重罪じゃ。それらのことも入道より彼にとくと申し含《ふく》められい」
「早速の御|聴許《ちょうきょ》、それがしも共どもにお礼申し上げまする」と、信西も眉を開いて、うやうやしく会釈した。
この問題はまずこれで一段落ちついたので、頼長と信西とは打ち解けていつもの学問の話に移った。そのうちに頼長は少し声を低めてこんなことを言った。
「入道、兄弟《けいてい》牆《かき》にせめげども、外その侮りを禦《ふせ》ぐという。今や稀代の悪魔がこの日本に禍いして、世を暗闇の底におとそうとする危急の時節に、兄はとかくに弟を妬んで、ややもすれば敵対の色目を見する。浅ましいことじゃ」
「それも関白殿のたましいに、悪魔めが食い入ったがためかとも存じ申す。われわれがとこう申すは恐れあれど、殿下この頃の御行状は……」
「それ、そのことじゃよ」と、頼長は待ちかねたようにひと膝乗り出した。「あらためて一いち申さずともお身もみな知っていよう。むかしとは違うて驕《おご》りには耽《ふけ》らるる、我が威には募《つの》らるる、あれが天下の宰相たるべき行状であろうか。兄上が今の心をあらためぬかぎりは、たとい玉藻一人を打ち亡ぼしても、やがて第二の玉藻が現わりょうも知れまい。国家まさに亡びんとする時は、かならず妖※[#「※」は上左上「屮」上左下「阜―十」上右「辛」下「子」、読みは「げつ」、180−16]《ようげつ》ありと申すはまさしくこの事じゃ。天下を治むる宰相にその器量なくして、国家まさに亡びんとすればこそ、もろもろの妖異も出て来るのじゃ。しょせんは妖魔が現われて国を傾くるのでない、国がすでに傾かんとすればこそ妖魔が現わるるのじゃと、この頼長は批判する。入道の意見はどうであろうな」
信西は黙って頼長の顔をながめていた。この返答は容易にできないと彼は思った。なるほど頼長の意見にも一応の道理はある。むしろそれが正しい批判であるかもしれない。しかもその返事次第で、彼はどうでも頼長の味方に引き入れられなければならないことを考えると、迂闊にここで自分の意見を発表するのを躊躇したのであった。
頼長は玉藻をほろぼすと同時に、兄の忠通をも亡ぼそうとするのである。それは今の口吻《くちぶり》に因《よ》っても確かに判る。頼長の議論からいえば、妖魔その物はそもそもの末で、その妖魔を呼び起こした根本の罪人はほかにある。その罪人は兄の関白である。たといいったんは玉藻をほろぼしても、兄がそのままに世に立っていては、やがて第二の玉藻が出現するに相違ないというのである。どう考えても、信西はその返答に困った。
彼はもとより頼長に親しんでいた。その才学にも舌を巻いていた。しかし彼はそれがために、頼長の兄に対して敵意をもつわけにはいかなかった。彼は頼長に対すると同じように、その兄に対しても同様の親しみをもっていた。大きくいえばそれが天下《てんが》のためである。二つにはそれが自分のためであるとも思っていた。現在のところ、彼がもっぱら頼長の方に傾いているらしく見えるのは、悪魔を退治するがためである。玉藻をほろぼすがためである。頼長と忠通との不和を醸《かも》しなすがためではない。この点に於いて、彼は頼長とその立ち場を異《こと》にしているのであるから、今の議論をうかつに賛成することは出来ない。いったん賛成した以上、頼長と合体して忠通に敵対しなければならない破目になるのは見え透いているので、彼はそれを恐れた。古入道の彼としては、むしろそれを愚かしいとも思った。
色紙短尺に歌を書くよりほかには能のない、又は※[#「※」は「糸へんに委」、182−4]《おいかけ》をつけて胡※[#「※」は上「竹かんむり」下左「金」下右「祿―示」、182−4]《やなぐい》を負うのほかには芸のない、青公家《あおく
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