で初めて言い出した。「先度《せんど》も物に狂うた法師にとらわれて、ほとほと難儀しているところを、お前に救うてもろうたに、今夜もまた……。とりわけて今夜の怖ろしさ、わたしは生きている心地もなかった」
「関白殿のお屋形には犬を飼うておられぬか」
「わたしは犬が大嫌いじゃで、殿に願うて一匹も残さず追い払うてしもうた」
「犬もおとなしければ可愛いものじゃが、群がって来て人を噛もうとする、そのような野良犬は憎いものじゃよ」と、千枝太郎も言った。
「わたしがこのように夜歩きして、犬に悩まされたなどということを、誰にも言うて下さるな」と、玉藻は頼むように言った。
「おお、誰にも言うまい。このようなことがひとに知れたら、わしも叱らるるわ」
「お師匠さまにか」
 千枝太郎はだまって月を仰いでいた。
「思えば不思議なものじゃ」と、玉藻は溜息をついた。「こうしてお前と親しゅうなりながら、お前のお師匠さまはわたしを仇のように呪うているお人、そのお弟子なりゃお前とわたしも仇同士、二人の行く末はどうなろうかのう」
 千枝太郎も引き入れられるような寂しい心持になった。玉藻はまた言った。
「くどくも言うようじゃが、お前のお師匠さまは遅かれ速《はや》かれ破滅の身の上じゃ。宇治の左大臣殿がいかほど贔屓《ひいき》せられても、理を非にまぐることは出来ない。そのまきぞえを受けぬように能《よ》く心しなされ」
 関白の屋形の門前で二人は別れた。千枝太郎が師匠の家へ戻り着いた頃には、夜もよほど更けていた。泰親はまだ眠らずに待っていたので、千枝太郎はすぐに師匠の前へ出て、今夜の使いの結果を報告すると、泰親は笑《え》ましげにうなずいた。
「少納言の御芳志は海山《うみやま》じゃ。泰親もよみがえったような心地がする。お身も大事の使いを果たしてくれて、いこう大儀であった」
 こう言ううちに、泰親の眉がだんだん陰ってきたのを、若い弟子はちっとも気がつかなかった。彼は師匠に褒められたのを誇りとして、自分の部屋へしずかに引き退がった。玉藻に就いて考えたいことがたくさんあったが、今夜の彼はあまりに疲れていたので、枕に就くとすぐに安らかに眠ってしまった。
 しかしその安らかな夢がさめると、彼は不意の落雷に驚かされたのである。夜があけると、彼は師匠の前に呼び出されて、突然に破門《はもん》を申し渡された。
「行く末の見込みある若者じゃと思うて、わしもこれまでいろいろに丹精してみたが、お身は執念《しゅうね》く怪異《あやかし》に憑《つ》かれている。お身のおもてに現われた死相はどうでも離れぬ。こう言うと、おのれの罪をひとにまぶし付くるようで甚だ心苦しいことではあるが、泰親が今度の祈祷を仕損じたも、五色にかたどった五人のうちにお身をまじえた為ではないかと疑わるる節《ふし》もある。かたがた、いつまでもここにおっては、泰親のためにもようない。お身のためには殊にようない。いったんは叔父のもとへ立ち戻って昔の烏帽子折りになって見やれ。そうして、つつがなく一年二年を送って、その禍いが去ったとみえたらば、再びもとの弟子師匠じゃ。憎うて勘当するのではない。しょせんはお身が可愛いからじゃ。むごい師匠と恨むまいぞ」
 噛んでふくめるように言い聞かせて、泰親は幾らかの金をつつんで呉れた。千枝太郎はただ夢のようで、なんと言い返してよいかを知らなかった。彼はおのずと涙ぐまれた。


烏帽子折《えぼしおり》

    一

「おとといのこと、頼長も近頃心外に存じ申すよ。泰親が一生に一度の祈祷《いのり》、よも仕損じはあるまいと頼もしゅう存じておったに、あの通りの体《てい》たらく……いや、さんざんじゃ」
 堪えぬ憤りの声に失望の溜息をまぜて、頼長は自分と向かい合っている信西入道のおちつき顔を睨むように見つめた。信西はゆうべ泰親の使いの口上を受け取って、けさは早朝から宇治の左大臣頼長をたずねたのである。泰親がおとといの失敗に対して、頼長の怒りのおびただしいことは信西も大方推量していたが、その気色《けしき》の想像以上にすさまじいのを見て、彼もさすがに少しく躊躇した。しかしそのままに口を結んでは帰られないので、彼は朽葉《くちば》色の直衣の袖をかきあわせながら徐《しず》かに言い出した。
「その儀に就きましては、泰親もいこう無念に存じて、いかようのお咎めを受きょうとも是非ないと申しております」
「勿論のことじゃ。彼めが家の職を剥《は》ぎとって、遠国《おんごく》へ流罪申し付きょうと思うている。泰親にもそれほどの覚悟はあろう。たとい頼長が捨て置いても、兄の関白殿が免《ゆる》さりょう筈がない。まして兄のそばには、かの玉藻が付いている。しょせんは逃れぬ彼の運じゃ」と、頼長は罵るように言った。
「実は昨夜、泰親の使いとして、弟子の一人がそれがしの許《もと
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