なんとか穏便《おんびん》の沙汰をと工夫しておったる折りからじゃ。彼が二度の祈祷を願うとあれば猶更のこと、なんとかして彼を救わねばなるまい。して、関白殿よりは今になんの沙汰もないか」
「なんの御沙汰もござりませぬ」
「それは重畳《ちょうじょう》。関白殿も本来は賢い御仁じゃで、無道の御沙汰もあるまいと存ずるが、なにをいうても今は悪魔に魅《みい》られているので、いかようの御沙汰もあろうかと、それがしも内《ない》ない懸念しておったが、今になんの御沙汰もなくば、存外穏便に済もうも知れぬ。いずれにしても信西が引き受けた。播磨守にも安心せいと伝えてくりゃれ」
 関白殿からなんの御沙汰もないのは、かの玉藻の取りなしであることを知っていたが、千枝太郎は、この人の前でもそれを明白《あらわ》に言うのを憚った。彼はうやうやしく礼をいって、信西の屋敷を出ると、月はいよいよ明るくなって、路ばたになびく柳の葉も一いちかぞえられる程であった。
 姉小路を出て、高倉の辻へさしかかると、ゆき先きで犬のほえる声がきこえた。気にも留めずに歩いてゆくと、犬の声はそこにもここにも聞こえた。それは唯ならぬ唸り声であった。
「盗賊かな」と、千枝太郎はあるきながら考えた。
 しかし彼は逞《たくま》しい若者である。賊の一人くらいは取りひしいで呉れようという息込みで、わざと大股に辻のまん中へ進んでゆくと、犬の声はだんだんに近くなった。一匹でない、四方八方から群がって来て、何者をか取り巻いているらしかった。
 見ると眼の前には一人の女が立ちすくんでいた。被衣《かつぎ》を深くして、しかもこちらを背にして立っているので、その顔はもとより判らなかったが、それが玉藻であるらしいことは直ぐに千枝太郎の胸に泛《う》かんだ。彼女はまだここらをさまよっていたらしく、あまたの犬は牙《きば》をむき出して彼女を遠巻きにしているのであった。犬のなかには熊のように大きいのもあった。虎のように哮《たけ》っているのもあった。しかしかれらは、なんの武器をも持たない女ひとりを噛み倒すほどの勇気もないらしく、唯すさまじい唸り声をあげて、いたずらに地上に映る女の影に吠えているばかりであった。
 孱弱《かよわ》い女子《おなご》が群がる犬に取り巻かれている。それが見ず識らずの人であっても見過ごすことは出来ないのに、まして相手は玉藻であるらしいので、千枝太郎の胸は跳《おど》った。彼はまず路ばたの小石を拾って真っ先に進んでいる犬の二、三匹を目がけてばらばらと打ち付けながら、つかつかと駈け寄って女を囲った。それでも犬はなかなか怯《ひる》まないらしく、一、二間さがったままでまだ執念ぶかく吠えつづけているので、千枝太郎もじれた。しかし彼も扇のほかに何物をも持っていないので、そこらに転がっている小石や、土くれのたぐいを手あたり次第に拾って投げた。手近へ飛びかかって来る敵を扇で打ち払った。
 犬の声があまりに激しいので、宵寝の都人《みやこびと》も夢をおどろかされたらしい。路ばたの小さい商人店《あきうどみせ》では細目に戸をあけた。それが盗賊でない、犬のいたずらであると知ったときに、そこらの家から二、三人の男が棒切れを持って出て来た。彼らは千枝太郎に加勢して、むらがる犬どもを叩きのけてくれた。敵がだんだんに多くなったので、犬もとうとう追い散らされてしまった。
「かたじけのうござる」
 千枝太郎は加勢の人たちに礼をいって、自分の囲っている女を見かえると、女はいつか自分のうしろを離れて、ある家の軒下の暗いかげに身を寄せていた。千枝太郎は彼女に声をかけた。
「さぞ怖ろしゅうござったろう。犬どもはみな追い払うた。心安うおぼされい」
 女は黙って軒下からすう[#「すう」に傍点]と出て来た。彼女はまだ被衣を深くしているのを、千枝太郎は月明かりで覗きながら訊いた。
「玉藻でないか」
 言いかけて彼はぎょっとした。被衣を洩れた女の顔は譬えようもないほどに悽愴《ものすご》いものであった。彼女の眼は怪しくさか吊って火のように燃えていた。彼女の口は獣《けもの》のように尖っていた。千枝太郎は再び眼を据えてよく視ると、それは一時のまぼろしで、月に照らされた女の顔はやはり美しい玉藻に相違なかった。
「犬に取り巻かるるは怖ろしいものじゃ。男でも難儀することがある。別に怪我もなかったか」と、彼は摺り寄って又きいた。
 玉藻はやはり黙っていた。異常の恐怖に囚われて、彼女はまだ息も出ないらしかった。千枝太郎は加勢の人に頼んで、家《うち》から水を持って来てもらった。その水をのんで、玉藻はようよう我に返ったらしく見えたが、それでもただ黙礼するばかりで、ひと言も口へは出なかった。人びとに挨拶して別れて、千枝太郎は玉藻を送って行った。
「お前にはいろいろ恩になりました」と、玉藻は途中
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