。彼はもとより師匠を信じていた。しかも玉藻のいう通り、彼女が果たして魔性の者であるならば、日本一というお師匠さまが七十日の間も肝胆を砕いた必死の祈祷に、その正体をあらわさぬということはあるまい。彼女は恐るる色もなしに調伏の壇に登ったのである。それを悪魔の勝利と見るのが正しいのであろうか。あるいは悪魔でもない者を悪魔として無益の祈祷をつづけていたこちらの眼違いであろうか。こう思うと、彼の胸は急に暗闇《くらやみ》になった。彼は自分の抱えている女を、どう処置していいか判らなくなってきた。
「お前はまだわたしを疑うているのか。いや、お前ばかりでなく、お師匠さまもきっとわたしを疑うているに相違あるまい。播磨守殿は情のこわい人と聞く。おそらくこれには懲りもせで、二度の祈祷など巧《たく》まるることであろう。二度が三度でもわたしは厭わぬが、そのような罪をかさねて、身の行く末は何となることやら、思いやるだに悼ましい。お師匠さまが大事じゃと思うなら、お前からよく意見して、もうさっぱりと思い切らせてはどうであろう。それともお前までがいつまでもお師匠さまの味方して、わたしを悪魔と呪う気か」
玉藻は男の腕に手をかけて、怨めしそうに彼をみあげた。その眼には白い露がきらきらと光っていた。
三
いかに玉藻に口説かれても、千枝太郎は師匠の使命を果たさなければならない破目《はめ》になっていた。無益の祈祷を幾たびもつづけて、罪に罪をかさねるのは悼ましいことの限りであるが、今更そんな諫言を肯《き》くようなお師匠さまでないことは、彼にもよく判っていた。諫言を肯かないばかりでなく、あるいは心の弱い者として自分に勘当を申し渡されるかもしれない。千枝太郎はそれも怖ろしかった。
第一の問題は、玉藻が果たして魔性の者であるか無いかということで、それを確かに見きわめた上でなければ、あとへもさきへも踏み出すことが出来ないのであるが、今の千枝太郎は不幸にして、それを見定めるだけの大きい強い眼をもっていなかった。彼は師匠を信じながらも、師匠を疑おうとした。玉藻を疑っていながらも、玉藻を信じようとした。こうした悲しい矛盾に責められて、彼はもう自分の立ち場が判らなくなってきた。
相手もその苦しみを察しているらしく、眼をふさぎながら徐《しず》かに言った。
「お前の切《せつ》ない破目もわたしはよく察している。二度の祈祷をするもせぬも、しょせんはお師匠さまの心ひとつじゃ。又それを仕損じて、どのような怖ろしい罪科に陥ちようとも、しょせんはお師匠さまの自業自得《じごうじとく》じゃ。わたしはお前のお師匠さまに恨みこそあれ、恩もない、義理もない、由縁《ゆかり》もない。あの人がどうなろうとも構わぬが、唯くれぐれも案じらるるはお前のことじゃ。おまえはそもそもお師匠さまが大切か、わたしがいとしいか、それを聞きたい。お前の性根《しょうね》を確かに知りたい。それを正直に言うてくだされ」
その正直な返事をすることが、千枝太郎に取っては一生に一度の難儀であった。彼は自分自身にもそれが確かに判っていないのである。玉藻はしばらくその返事をうかがっていたが、相手は唯うつむいて土に映る二人の黒い影を眺めているばかりであるので、彼女はやがて低い溜息をつきながら言った。
「お前はどうでもお師匠さまの味方と見た。この上はもうなんにも言うまい。お師匠さまと一つになって、わたしを祈るとも呪うとも勝手にしなされ。じゃが、千枝ま[#「ま」に傍点]。わたしはあくまでもお前をいとしいものに思うている。お師匠さまにどのような禍いが降りかかっても、お前ばかりはきっと助けたいと念じている。それだけのことはよく覚えていてくだされ」
こう言い切って、彼女は明るい月をみあげた。きのうの稲妻に照らされた悽愴《ものすご》い顔とは違って、今夜の月を浴びた彼女の清らかな神々《こうごう》しいおもてには、月の精が宿っているかとも思われた。千枝太郎に師匠を疑う心がまた起こった。しかも別れてゆく女をさすがに抑留《ひきと》める気にもなれなかったので、彼はなんだか残り惜しいような心持でそのうしろ影を見送っていたが、やがて思い切って信西の屋敷の門をくぐった時には、彼の両袖は夜露にしっとりとしめっていた。
信西入道はすぐに逢ってくれた。千枝太郎が師匠の口上を取次ぐと、信西は案外にこころよく承知した。
「おお、さもあろうよ。一度は仕損じても、身命をなげうって二度の祈祷を心がくる――泰親としてはさもあるべきことじゃ。信西もそうありたいと願うていた。左大臣殿もおそらく同じ心であろう。あすにも直ぐに宇治へまいって、播磨守の願意は確かにそれがしが取次いでやる。さものうてもこのたびの仕損じに就いて、播磨守一人に罪を負わすは我々も甚だ快《こころよ》うないことじゃで、
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