千枝太郎は心得顔にうなずくと、泰親はさらに声を忍ばせて言った。その用向きはほかでもない、信西入道の袖にすがって更に七十日の猶予を頼もうとするのである。家の職を奪われ、あるいは遠流《おんる》の身となっては、再び悪魔調伏の祈祷を試むる便宜《よすが》もない。関白殿からなんの沙汰もないうちに、なんとかして自分の罪を申しなだめて、二度の祈祷を試むるだけの期間をあたえて貰いたい。その七十日を過ぎてもやはり効験《しるし》がなかったらば、流罪はおろか、死罪獄門も厭わない。勿論、それは信西入道の一存で取り計らうわけにもいくまいが、入道から更に左大臣頼長に訴えて、この願意を聞き済ましてくれるように何分尽力して貰いたい。自分は謹慎の身の上でみだりに門外へ出ることが出来ないから、おまえが今夜忍んでこの使いを果たしてくれというのであった。
 千枝太郎は即座に承知した。
「委細心得ました。仰せの通りに仕まつりまする」
 彼は立派に受け合って師匠の前を退がった。一度の祈祷を仕損じても、さらに二度の祈祷を心がける師匠の強い決心に、千枝太郎は感激した。もう一つには、数《かず》ある弟子たちのうちでこの大切の使いを自分に頼まれたということが、彼に取っては一生の面目のようにも思われた。たとい信西入道がなんと言おうとも、かならず取りすがってこの役目を果たして来なければならないと、彼ははりつめた心持で夜の来るのを待っていた。
 都の寺《てら》でらの鐘が戌《いぬ》の刻(午後八時)を告げるのを待ち侘びて、千枝太郎は土御門《つちみかど》の屋敷を忍んで出ると、八月九日の月は霜を置いたように彼の袖を白く照らした。
「千枝太郎どの。千枝ま[#「ま」に傍点]」
 柳のかげから女の声がきこえた。それは彼が信西入道の屋敷の前まで行き着いた時であった。その声には確かに聞き覚えがあるので、彼は大地に釘づけになったように一旦は立ちすくんだが、聞かない顔をして一生懸命に歩き出そうとすると、その直衣《のうし》の袂はいつか白い手に掴まれていた。
「千枝太郎どの、なぜ逃げる。つれない人じゃ」
「いや、わしは急ぎの用がある」
 振り切ろうとしても玉藻は放さなかった。
「なんの用かは知らぬが、お前たちは慎みの身の上じゃ。勝手に夜歩きなどしても苦しゅうないか」
 千枝太郎は行き詰まった。勿論、まだ表向きには謹慎も蟄居も申し渡されてはいないのであるが、この場合に謹慎は当然のことである。その身の上で勝手に夜歩きをする。ひとに見咎められては申し訳がない。彼もしばらく黙って突っ立っていた。
「それ、お見やれ」と、玉藻はほほえんだ。「おまえは今夜このお屋敷へなにしに参られた。お師匠さまのお使いか」
 千枝太郎はやはり黙っていた。
「ほほ、言わいでも大抵知れている。そう思うて、わたしはさっきからここにお前を待っていた。一度は首尾して逢うてくれと、このあいだもあれほど頼んだに、お前はきょうまで素知らぬ顔をしている。それほどにわたしが憎いか。但しはお師匠さまと同じように、あくまでもわたしを魔性の者のように疑うているのか。お師匠さまはともあれ、山科の里で子供のときから一緒に育ったお前が、なんでわたしを疑うぞ。論より証拠はきのうの祈祷《いのり》じゃ。お前たちもお師匠さまと一つになって、悪魔調伏の祈祷をせられたが、あっぱれその効験《しるし》が見えましたか。もともと悪魔でもないわたしを百日千日祈ればとて呪えばとて、なんのしるしがあるものか、積もって見ても知らるることじゃ。関白殿は殊のほかの御立腹で、泰親はいうに及ばず、祈祷の壇にのぼった者は、一人も残さずに遠い鬼界ケ島《きかいがしま》へ流せと仰せられたを、わたしが縋ってなだめ申したは、お前という者がいとしいからじゃ。お師匠さまはわたしに取っては仇じゃが、そのお弟子のお前はいとしい。あけても暮れても硫黄《いおう》の煙りを噴くという怖ろしい鬼界ケ島、そのような処へお前をやらりょうか。のう、千枝ま[#「ま」に傍点]。わたしがこれほどの心づくしを、お前は哀れとも思わぬか、嬉しいとも思わぬか。ほんにほんに、むごい人、つれない人、憎い人、わたしは口惜しゅうて涙も出ぬ。察してくだされ」
 彼女は千枝太郎の胸に顔をすり付けて、遣《や》る瀬ないように身もだえして泣いた。男は女を抱《かか》えたままで、明るい月の下に黙って立っていた。
 関白殿から今までなんの沙汰もなかったのは、玉藻が内からさえぎっていたのであることを、千枝太郎は今初めて覚った。名を聞くさえも恐ろしい鬼界ケ島へ遠流――年の若い彼はさすがにぞっとした。それを救われたのは玉藻の情けであることを考えると、千枝太郎も情《すげ》なく彼女を突き放すことも出来なくなった。
 玉藻は果たして魔性の女であろうか――この疑いが又もや彼の胸に芽をふいた
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