色に濁ってきた。まぶしい日の光りが吹き消されたように暗くなった。
「わあ、天狗じゃ」
 岸の上では群衆《ぐんじゅ》が俄にどよめいた。天狗か何か知らないが、化鳥《けちょう》がつばさを張ったようなひとむらの黒雲が今度は男山《おとこやま》の方から湧き出して、飛んでゆくように日の前を掠《かす》めて通ったのである。その雲が通り過ぎると、下界は再び薄明るくなったが、空の鼠色はもう剥げなかった。
「雨たびたまえ。八大龍王」
 玉藻が榊の枝をひたいにかざして、左に右に三度振ると、白い麻はすすきのように乱れて、黄金《こがね》の釵子《さいし》をはらはらと撲《う》った。
「や、雨じゃ」
 岸の上では一度に叫んだ。湿気を含んだ冷たい風が壇の四隅の笹竹を撓《たわわ》にゆすって、暗い空の上から大粒の雨がつぶてのように落ちてきた。
「八大龍王、感応《かんのう》あらせたまえ」
 玉藻はすっくと起ちあがって再び叫んだ。ひたいの釵子は斜めに傾きかかって、黒い長い髪はおどろに振り乱されていた。その蒼白い顔を照らすように、大きい稲妻が壇の上を裂けて走った。
「雨じゃ、雨じゃ」
 警固の侍までが空を仰いで声をあげた。瀧のような大雨は天《あま》の河《かわ》を切って落としたようにどっと降ってきた。

    二

 甘露《かんろ》のような雨はその夜のふけるまで降り通したので、天の恵みをよろこぶ声ごえは洛中洛外に溢れた。彼らは天の恵みを感謝すると共に、玉藻の徳の宏大無量を讃美した。彼らばかりではない。忠通は小おどりして喜んだ。
「見い、あいつら。これほどの奇特を見せられても、まだまだ玉藻を敵とするか。この忠通を侮るか。はは、小気味のよいことじゃ」
 実際、これに対して玉藻の敵も息をひそめないわけにはいかなかった。頼長も信西もなんとも声を立てることが出来なくなった。とりわけ面目を失ったのは泰親である。彼は公《おおやけ》の沙汰を待たないで、自分から門を閉じて蟄居《ちっきょ》した。
 泰親はもともと雨を祈ったのではない。したがって玉藻との祈祷くらべに不覚を取ったというのではないが、悪魔調伏は秘密の法で、表向きは雨乞いの祈祷である以上、泰親が半日の祈祷にはなんの効験《しるし》もなかったのに、それに入れ代った玉藻は一※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、163−16]《いっとき》の後にあれほどの大雨を呼び起こしたのであるから、表向きはどうしても彼の負けである。安倍晴明六代の孫は祖先を恥ずかしめたのである。彼は謹《つつし》んで罪を待つよりほかはなかった。弟子も無論に師匠と共に謹慎していた。泰親は自分の居間に閉じ籠ったままで、誰とも口をきかなかった。
 その明くる日は晴れていたが、きのうの雨に洗われた大空は、俄に一里も高くなって、その高い空から秋らしい風がそよそよと吹きおろしてきた。縁に近い梧《きり》の葉が一、二枚、音もなしに寂しく落ちるのを、泰親はじっと眺めていると、千枝太郎はぬき足をして燈台をそっと運んで来た。きょうももういつの間にか暮れかかっていた。
「千枝太郎、きょうは朝から誰も見えぬか」
「誰も見えませぬ」
「関白殿よりお使いもないか」
「はい」
 千枝太郎は伏し目になって師匠の顔色をうかがうと、燈台の灯に照らされた泰親の顔は水のように蒼かった。
「大切の祈祷を仕損じた泰親じゃ。重ければ流罪《るざい》、軽くとも家《いえ》の職を奪わるる。その御沙汰がきょうにもあるべき筈じゃに、今になんのお使いもないは……」と、泰親は頭《かしら》をかたむけた。「人は何ともいえ、雨乞いの勝ち負けなど論にも及ばぬ。ただ無念なは我が秘法の敢《あ》えなくも破れたことじゃ。七十日の祈りもしっかい空《くう》となって、悪魔が調伏の壇にのぼって勝鬨《かちどき》をあぐるとは、しょせん泰親の法もすたった。上《かみ》に申し訳がない、先祖に申し訳がない。左大臣殿や少納言殿にも申し訳がない。この上はただ慎《つつし》んで罪を待つよりほかはないのじゃが、いかに思い返しても唯このままに手をつかねて、悪魔の暴《あら》ぶるをおめおめ見物するのは、国のため、世のため、人のため、なんぼう忍ばれぬことじゃ。泰親を卑怯と思うな。未練と思うな。泰親の命は疾《と》くに投げ出してある。しかしもう七十日無事でいて、命のあらんかぎり二度の祈祷をしてみたい。就いては千枝太郎、折り入って頼みたいことがある。頼まれてくれぬか」
 師匠の眼の底には強い決心の光りがひらめいていた。千枝太郎はその光りに打たれたように頭を下げた。
「いかようのお役目でも、わたくしきっと承りまする」
「まずは過分《かぶん》じゃ。幸いに日も暮れた。いま一※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、165−10]ほどしたら屋敷をぬけ出して、少納言殿屋敷までそっと走ってくりゃれ
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