刻からはお身の祈祷《いのり》でないか」
玉藻はしずかに見返った。その美しいまなじりには少しく瞋恚《いかり》を含んでいるらしかった。
「きょうの祈祷は雨乞いでござりませぬ。調伏《ちょうぶく》の祈祷とみました。呪詛諸毒薬《じゅそしょどくやく》、還着於本人《げんぢゃくおほんにん》と、み仏も説かれてある。そのような怖ろしい場所へ立ち寄るなどと思いも寄らぬことでござりまする」
檜扇《ひおうぎ》に白いおもてをかくして立ち去ろうとする彼女を、泰親はかさねて呼び返した。
「さてはお身、この泰親の祈祷を調伏と見られたか。して、その祈らるる当の相手を誰と見られた」
「問うまでもないこと。雨乞いならば八大《はちだい》龍王を頼みまいらすべきに、壇の四方に幣《ぬさ》をささげて、南に男山《おとこやま》の正《しょう》八幡大菩薩、北には加茂大明神、天満天神、西東には稲荷、祇園、松尾、大原野の神々を勧請《かんじょう》し奉ること、まさしく国家鎮護悪魔調伏の祈祷と見ました。して、その祈らるる当の相手はこの玉藻でござりましょう」
彼女の声は凜として河原にひびいた。泰親はすぐに打ち返して言った。
「それを御存じならば、なぜこの壇にうしろを見せらるるぞ。泰親の祈祷がそれほどに怖ろしゅうござるか」
玉藻は檜扇で口を掩いながら軽く笑った。
「わたくしが怖ろしいと申したのは、そのように呪詛調伏《じゅそちょうぶく》を巧らむ、人のこころが怖ろしいと申したのでござりまする。この身になんの陰りもない玉藻が、なんでお身たちの祈祷を恐れましょうぞ」
その恐れげのない証拠を眼《ま》のあたりに見せようとするのであろう。彼女は長い裳をするすると曳いて壇の前まで進み寄って来た。泰親は白い幣をとり直してまた言った。
「まずお身に問うことがござる。さきの夜、関白殿が花の宴《うたげ》のみぎりに、身の内より怪しき光りを放って嵐の闇を照らした者があるとか承る。神明仏陀《しんめいぶつだ》ならば知らず、凡夫《ぼんぷ》の身より光明を放つということ、泰親いまだその例《ためし》を存ぜぬが、玉藻の御はなんと思わるるぞ」
玉藻はその無智をあざけるように、唇に薄い笑みをうかべた。
「播磨守殿ともあるべきお人が、それほどのことを御存じないか。そのむかしの光明《こうみょう》皇后、衣通《そとおり》姫、これらの尊き人びとを、お身は人間にあらずと見らるるか。但しは魔性の者と申さるるか」
これらの人びとは現実に不思議を見せたのではないと泰親は言った。前者はその徳の輝きを仰いで光明と申したのである。後者《こうしゃ》はその肌の清らかなのを形容して衣通と呼んだのである。いかなる尊い人間でも、身の内から光りを放って夜を昼にするなどというためしのあるべき筈がない。もしこの世にそのような人間があるとすれば、それは仏陀の権化《ごんげ》か、但しは妖魔の化生《けしょう》であると、彼は鋭く言い切った。
「では、この玉藻を妖魔の化生と見られまするか。それに相違ござりませぬか」と、玉藻は眉も動かさずに言った。「さりとは興《きょう》がることを承るもの。この上はとこうの論は無益じゃ。お身たちはまずその壇を退《の》かれい」
「お身はここへ登ると言うか」
「おお、登りまする。お身たちが調伏の壇の上までも、恐れげもなしに踏み登るというが、玉藻の身に陰りのない第一の証拠じゃ。午の刻を過ぎたらもうお身に用はない筈。わたくしが代って祈りまする。退かれい、退かれい。退かれませ」
彼女は命令するようにおごそかに言い渡した。そうして、檜扇を把《と》り直してしずしずと祈祷の壇上にのぼって行った。道理に責められて、泰親も席を譲らないわけにはいかなくなった。彼はよんどころなしに壇を降りると、その白い影につづいて、青も赤も黄も黒もだんだんに退いて、五つ衣に唐衣を着た美しい女が入れ代って壇上のあるじとなった。彼女は顋《あご》で差し招くと、供の侍は麻の幣《しで》をかけた榊《さかき》の枝を白木の三宝に乗せて、うやうやしく捧げ出して来た。玉藻はしずかにその枝を把って、眼をとじて祈り始めた。
泰親は灼《や》けた小石にひざまずいて、息をのんで彼女の祈祷を見つめていた。頼長も手に汗を握って窺っていた。玉藻がなんの悩める体《てい》もなしに、調伏の壇へ易《やす》やすと踏みのぼったということが、すでに泰親の敗北を意味しているのであった。この上に万一彼女が祈祷の奇特があらわれて、ひと粒の雨でも落ちたが最後、泰親は彼女の前にひざまずいてその罪を詫びなければなるまい。頼長も信西も気が気でなかった。
未《ひつじ》の刻(午後二時)をすこし過ぎた頃、比叡《ひえ》の頂上に蹴鞠《けまり》ほどの小さい黒雲が浮かび出した。と思う間もなしに、それが幔幕《まんまく》のようにだんだん大きく拡がって、白い大空が鼠
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