八月八日はやはり朝から晴れ渡っていた。赤い雲すらも今日はもう灼《や》け尽くしたのであろう、大きい空は遠い海をみるようにただ一面に薄青かった。
 河原の祈祷はまず泰親から始められた。


犬《いぬ》の群《む》れ

    一

 祈祷《いのり》の壇は神々《こうごう》しいものであった。
 壇の上には新しい荒莚を敷きつめて、四隅には笹竹をたて、その笹竹の梢には清らかな注連縄《しめなわ》を張りまわしてあった。又その四隅には白木の三宝《さんぼう》を据えて、三宝の上にはもろもろの玉串《たまぐし》が供えられてあった。壇にのぼる者は五人で、白、黒、青、黄、赤の五色《ごしき》に象《かたど》った浄衣《じょうえ》を着けていた。千枝太郎泰清は青の浄衣を着けて、おなじ色の麻の幣《へい》をささげて、南にむかって坐っていた。ほかの三人は黒と赤と黄の浄衣を身にまとって、おのおのその服と同じ色の幣をとって、北と東と西とに向かって坐った。
 安倍播磨守泰親は白の浄衣に白の幣をささげて、壇のまん中に坐っていた。彼は北に向かっていた。この頃の強い日に乾き切って、河原の石も土もみな真っ白に光っている中に、彼の姿は又一段すぐれて白く見られた。
 雨乞いの祈祷は巳《み》の刻(午前十時)を過ぎても何の効験《しるし》も見えなかった。壇のまわりには北面《ほくめん》の侍どもが弓矢をとって物々しく控えていた。左大臣頼長を始めとして、あらゆる殿上人《てんじょうびと》はいずれも衣冠《いかん》を正しくして列《なら》んでいた。岸の両側の大路小路も見物の群れで埋められていた。これらの幾千の人びとはいずれも額に汗をにじませながら、白く灼けている空を不安らしく眺めていたが、空は面憎《つらにく》いほど鎮まり返って、鳥一羽の飛ぶ影すらも見えなかった。
「やがてふた※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、157−6]《とき》にもなろうに、雲一つ動きそうにも見えぬではないか」
「祈祷は午の刻までじゃという。それまで待たいでは奇特の有無はわかるまいぞ」
 こんなささやきが見物の口々から洩れた。あまたの殿上人の汗ばんだ眉のあいだに、不安の皺がだんだんに深くなってきた。しかし頼長は騒がなかった。泰親がきょうの祈祷の趣意は雨乞いではない。玉藻の前に対する悪魔調伏の祈祷である。頼長や信西の側からいえば、雨の降ると降らぬとは問題でない。泰親はもともと雨を祈っているのでないことを承知している彼らは、雨の降らないのをむしろ当然に思っているくらいであった。
 泰親も四人の弟子もきょうの空と同じように鎮まり返って祈りつづけていた。彼らはまじろぎもしなかった。風のない壇の上に五色の幣はそよりとも動かなかった。河原一面の日に照らされながら、公家も侍も息をつめて控えていた。
 やがて午の刻が来た。岸の上で一度に洩らす失望の溜息が夕立のように聞こえ出した。
「もう詮《せん》ない、時刻が来た」
「いかに神《かみ》がみを頼んでも、降らぬ雨は降らぬに決まったか」
「いや、まだ力を落とすまい。午を過ぎたら玉藻の前の祈りじゃというぞ」
「播磨守殿すらにも及ばぬものを、女子《おなご》の力でどうあろうかのう」
「かの御《ご》は知恵も容貌《きりょう》も世にすぐれたお人で、やがては采女に召さりょうも知れぬという噂がある。その祈祷じゃ。神も感応ましまそうも知れまい」
 噂のぬしは午の刻を合図に、その優艶な姿を河原にあらわした。玉藻もきょうは晴れやかに扮装《いでた》っていた。彼女は漆《うるし》のような髪をうしろに長くたれて、日にかがやく黄金《こがね》の釵子《さいし》を平びたいにかざしていた。五つ衣《ぎぬ》の上衣《うわぎ》は青海波《せいがいは》に色鳥の美しい彩色《つくりえ》を置いたのを着て、又その上には薄萌黄《うすもえぎ》地に濃緑《こみどり》の玉藻をぬい出した唐衣《からごろも》をかさねていた。彼女は更に紅打《べにう》ちの袴をはいて、白地に薄い黄と青とで蘭菊の影をまぼろしのように染め出した大きい裳《も》を長く曳いていた。あっぱれ采女のよそおいである。頼長はそれをひと目見て、彼女の僭上《せんじょう》を責めるよりも、こうした仰々《ぎょうぎょう》しい姿にいでたたせた兄忠通の非常識に対して十二分の憤懣《いきどおり》を感じた。
 しかし今はそれを論議している場合でないので、頼長も信西も黙ってその成り行きをうかがっていると、玉藻は関白家の侍どもに護られて、しずかに壇のそばへ歩み寄ったかと思うと、彼女はたちまち顔色を変えた。彼女はなんにも言わずにそのまま引っ返そうとした。
「玉藻の御《ご》、お待ちゃれ」
 泰親は壇の上から声をかけた。これを耳にもかけない様子で、玉藻はあくまでも引っ返して行こうとするらしいので、堪えかねて頼長も呼び止めた。
「玉藻、なぜ戻る。午の
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