仰いで、関白忠通は唸るような溜息をついた。さらでも病み疲れている彼が、このごろの暑さに毎日さいなまれているのであるから、骨も肉も半分は溶けたようで、もう生きている心持はなかった。こうした嬲《なぶ》り殺しに逢うほどならば、いっそひと思いに死んだ方がましであるようにも思われた。まして彼の胸にはさまざまの不満や不快の種が充《み》ち満ちている。さりとて今となっては出家遁世して、自分の地位や権力を見すみす頼長に横領されるのも無念であった。
彼は今、玉藻がむいてくれた瓜《うり》の露をすこしばかりすすって、死にかかった蛇のように蒲莚《がまむしろ》の上に蜿《のた》打っていた。それを慰めるのは玉藻がいつもの優しい声であった。
「ほんに何というお暑さやら。天竺は知らず、日本にこのような夏があろうとは……。もう六十日あまりも降りませぬ」
「ここやかしこで雨乞いの祈祷《いのり》も、噂ばかりでなんの奇特《きどく》も見えぬ。世も末になったのう」と、忠通も力なげに再び溜息をついた。
「神ほとけに奇特がないと仰せられまするか」
「論より証拠じゃ。いかに祈ってもひと粒の雨さえ落ちぬわ」
「それは神ほとけに奇特が無いのでない。人の誠が足らぬからかと存じまする」
「それもあろうか」と、忠通はうなずいた。「弟が兄をかたむけようと企て、味方が敵になる世の中じゃ。人に誠の薄いのも是非ないか」
玉藻は忠通をあおいでいる唐団扇《とううちわ》の手を休めて、しばらく考えているらしかったが、あらためて主人の前に手をついた。
「唯今も仰せられました通り、あらゆる神社仏閣の雨乞いが少しも効験《しるし》のないと申すは、世も末になったかのように思われて、神ほとけの御威光も薄らぐと存じられまする。さりとは余りに勿体ないこと。就きましては、不束《ふつつか》ながらこの玉藻に雨乞いの祈祷をお許しくださりませぬか」
小野小町は神泉苑《しんせんえん》で雨を祈った。自分に誠の心があらば神も仏もかならず納受《のうじゅ》させらるるに相違ないと彼女は言った。なるほどそんな道理もあろうと忠通も思った。この玉藻ならばむかしの小町に勝るとも劣るまい。彼女の誠心《まごころ》が天に通じて、果たして雨を呼ぶことができれば世の幸いで、万人の苦を救うことも出来るのである。もう一つには、ここで彼女にそれだけの奇特を示させて置けば、かの采女の問題もやすやす解決して、頼長でも信西でももう故障をいう余地はない。玉藻も立ちどころに殿上に召されて、やがては予定の通りに頼長や信西の一派を蹴落とすことも出来る。こう思うと、忠通の弱った魂はよみがえったように活気づいて、彼は俄に起き直った。
「おお、殊勝な願いじゃ。忠通が許す。早くその祈祷《いのり》をはじめい」
「では、一七日《いちしちにち》のあいだ身を浄めまして、加茂の河原に壇を築かせ、雨乞いの祈祷を試みまする」
玉藻が雨乞いの祈祷は関白家から触れ出された。その式はなるべく壮厳《そうごん》を旨として、堂上堂下の者どもすべて参列せよとのことであった。雑人《ぞうにん》どもの争擾《そうじょう》を防ぐために、衛府の侍は申すにおよばず、源平の武士もことごとく河原をいましめと言い渡された。その日は八月八日と定められた。
「ほう、さりとは不思議。あたかも七十日の満願の当日じゃ」と、泰親はうなずいた。
彼はすぐに信西入道のもとへ使いを走らせて、自分たちも当日は河原へ出て祈りたいと言った。眼《ま》のあたりに魔性の者を祈り伏せるには、願うてもなき好機会であると彼は思った。
信西も同意であった。彼は頼長と打ちあわせて、こちらも表向きは雨乞いの祈祷と言い立て、おなじ河原で祈りくらべをさせることに決めた。一日を二つに分けて、あかつきの卯《う》の刻(午前六時)から午《うま》の刻(十二時)までの半日を泰親の祈祷と定め、午の刻から酉《とり》の刻(午後六時)までの半日を玉藻の祈祷と定め、いずれに奇特があるかを試《ため》さするというのであった。
「又しても彼らが楯を突くか」と、忠通は焦《じ》れて怒った。
しかし玉藻は別に騒ぎもしなかった。祈り比べをするというのは却《かえ》って幸いである。どちらに奇特があるかを万人の見る前でためしたいと言った。
「して、万一わたくしの勝ちとなりましたら、相手の播磨守どのはどうなりましょう」
「むろん流罪《るざい》じゃ。陰陽《おんよう》の家《いえ》へ生まれてこの祈りを仕損じたら、安倍の家のほろぶるは当然じゃ」と、忠通は罵るように言った。
「お気の毒じゃが、是非がござりませぬ」
彼女は自分の勝を信ずるように言った。
忠通も彼女に勝たせたかった。相手の泰親はともかくも、この勝ち負けは結局自分と頼長一派との運定めであるように思われた。彼は苛《いら》いらした心持でその日を待っていた。
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