に立ち去った。
僧は這い起きて又追おうとするのを、千枝太郎は又抱き止めた。僧は熱い息をふいて身をもがいているところへ、四、五人の若い僧が汗みどろになって追って来た。
「おお、ここにじゃ。どなたか知らぬが、かたじけのうござる」
彼らは千枝太郎に礼をいって、まだ哮《たけ》り狂っている老僧を宙にかつぐように連れて行った。狂える老僧は法性寺の阿闍梨《あじゃり》であった。
三
法性寺の阿闍梨がその夜、寺内の池に身を沈めて果てたということを聞いたときに、千枝太郎は又ぞっとした。高僧は玉藻の蠱惑《こわく》に魅《み》せられて、狂い死にの浅ましい終わりを遂げたのであろう。きのう信西入道の屋形で彼女に囁《ささや》かれた甘いことばも、今は悪魔の囁きのように思われて、千枝太郎はややもすれば魔道へ引き入れられそうな自分の危うい運命を恐れた。
「きのう、かの玉藻に逢うたか」と、播磨守泰親は若い弟子に訊いた。
千枝太郎は彼女に出逢ったことを正直に打ち明けると、泰親の眉はまた皺められた。
「くどうも言うようじゃが、心《こころ》せい。お身の行く末いかにも心許《こころもと》ないぞ。玉藻はきのう少納言入道の屋形へまいって、別室で入道に対面し、世におそろしいことを密々に訴えたそうじゃ。関白殿が俄に人数を召されて、宇治の左大臣と少納言入道とを一ッ時に誅伐せらるるお催しがあると申すのじゃ。入道殿ほどの御仁《ごじん》がそのような讒口《ざんこう》を真《ま》に受けらるる筈はなし、且《かつ》は日頃から疑いの眼を向けている玉藻の訴えじゃで、まずよいほどに会釈して追い返されたそうなが、こちらへ来てそれほどのことを言う奴、あちらへ参っても又どのような讒口を巧《たく》もうやら。返すがえすも怖ろしい。しょせん彼女《かれ》めはさまざまに手を換え品をかえて、人間に禍いの種をまき、果ては天下の乱れを惹《ひ》き起こそうとするにきわまった。まだそればかりでない。かれは関白殿をそそのかして、采女に召さりょうという大望を起こしたという。勿論、左大臣殿にさえぎられて、いったんは沙汰やみになったと申すが、かれのごとき魔性の者が万一、殿上に召さるるなどの事あっては、わが日の本は暗闇じゃ」
もうどうしても猶予は出来ないので、信西入道と相談の上で、自分はきょうから身を浄《きよ》めて七十日の祈祷《いのり》を行なうことにきめた。左大臣頼長ももちろん同意である。由来、かかる魔性の者はその目の前で祈り伏せて、すぐに正体を見あらわすのが秘法の極意《ごくい》ではあるが、関白殿御寵愛の女子を呼び出して、その目の前で悪魔調伏の祈祷を試みるというわけにもいかないので、七十日の間、自分の居間に降魔《ごうま》の壇を築いて、蔭ながら彼女を祈り伏せる決心である。それには自分のほかに四人の弟子がいる。お前もその一人に加える筈であるから、あっぱれ一心をぬきん出て怠りなく仕まつれと、彼は千枝太郎にこまごまと言い聞かせた。
「かしこまりました」と、千枝太郎は自分の重い責任を感じながら直ぐに承知した。
「泰親に取っては一生に一度の大事の祈祷じゃ。身命をなげうって仕まつる。お身たちも命を惜しまず、精《せい》かぎり根《こん》限り祈りつづけよ。われわれ五人のうち、一人たりとも心のゆるむものあらば、修法《しゅほう》は決して成就せぬものと思え。胸にきざんで忘るるな」
播磨守泰親は決死の覚悟でこの大事に当たろうというのである。千枝太郎のほかに、三人のすぐれた弟子も交るがわるに呼び出されて、同じく師匠の大決心を言い聞かされた。弟子たちはみな涙ぐまれるような心持で、神のように尊い師の前に頭《かしら》をさげた。一種悲壮な空気が安倍晴明の子孫の家にみなぎった。
一時は鴨川が溢《あふ》れるかとも危ぶまれた今年のさみだれも、五月の末から俄に晴れつづいて、六月にも七月にも一滴の雨がなかった。火のような雲が空を飛んで、焼けるような強い日が朝から晩まで照りつけた。それに焦《こが》された都の土は大地震のあとのように白く裂けてしまった。鴨川の水も底を見せるほどに痩せて枯れて、死んだ魚は白い腹を河原にさらしていた。大路《おおじ》の柳はぐたり[#「ぐたり」に傍点]と葉をたれて、広い京の町に燕《つばめ》一羽の飛ぶ影もみえなかった。それが京ばかりでなく、近郷近国《きんごうきんごく》いずれもこの大旱《おおひでり》に虐《しいた》げられて、田畑にあるほどの青い物はみな立ち枯れになってしまった。
あらゆる神社仏閣で雨乞いの祈祷が行なわれた。このままにひでりが打ち続いたならば、草木ばかりでなく、人間もやがて蒸し殺されてしまうかもしれないと悲しまれた。八月になっても雨雲の影さえ動かなかった。
「えらい暑さじゃ。総身《そうみ》がゆでらるるような」
薄い藍《あい》色の大空を
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