何事をか言おうとするとき、奥から一人の侍が出て来た。
侍は胡乱《うろん》らしく玉藻をじろじろ眺めているので、玉藻は丁寧に会釈して、主人の入道に取次ぎを頼むと、侍は更に彼女の顔を睨むように見て、すぐに内へ引っ返して行った。
「あれは右衛門尉成景《うえもんのじょうなりかげ》というお人じゃ」と、千枝太郎は彼のうしろ姿を見送って教えた。
「見るから逞《たくま》しそうな。さすがは少納言殿のお内に侍《さむら》う人ほどある」と、玉藻はうなずいて、さてまた語り出した。
「のう、千枝太郎どの。くどくも言うようじゃが、お前どうでもわたしに逢うのはいやか。今宵にはかぎらぬ、あすでもあさってでも……。関白殿のお屋形へまいって、玉藻に逢おうと言うてくれたら、わたしはきっと首尾して出る。これ、どうでもいやか。どうでも応《おう》とは言われぬか」
彼女はくれないの唇を男の耳にすりつけて囁《ささや》いた。
女のうす絹に焚きこめた甘いような香の匂いは千枝太郎のからだを夢のように押し包んで、若い陰陽師の血は俄に沸き上がった。強い夏の日を仰ぐ彼の眼はくらくらと眩《くら》んできて、彼は真っ直ぐに立っているに堪えられないように、思わず女の腕にもたれかかると、玉藻はほほえみながら彼を軽くかかえてやった。そうして又、甘えるようにささやいた。
「さりとは情のこわい人じゃ。むかしの藻を忘れてか」
邪魔なところへ右衛門尉成景が再び出て来た。彼は玉藻に向かっておごそかに言った。
「主人の少納言、あいにくの客来《きゃくらい》でござれば、御対面はかなわぬとの儀にござる。失礼は御免、早々にお帰りあれ」
「それは残り多いこと」と、玉藻は相手の無礼を咎《とが》めもせずにあでやかに笑った。「お客は播磨守殿とやら。大切の御用談でござろうか」
「主人と閑室にての差し向かい、いかようの用談やら我々すこしも存じ申さぬ」と、成景はにべ[#「にべ」に傍点]なく言った。
それでも玉藻は素直に立ち去らなかった。自分は是非とも入道殿にひと目逢って密々に申し入れたい大切の用事があるから、お客の邪魔にならないように別間でしばらくお逢いを願いたいと押し返して言った。成景はなんとかして主人に逢わせまいと考えているらしく、いろいろに詞《ことば》をかまえて追い払おうとしたが、玉藻はなかなか動きそうもないので、彼もとうとう根《こん》負けがして又もや奥へ引っ返したかと思うと、今度はすぐに出て来て、玉藻を内へ案内した。
千枝太郎はもとの一人になって、えんじゅの青い影の下に立っていた。彼はもう半分は夢のようで、なにを考える力もなかった。青い葉をゆする南風がそよそよと彼の袂を吹きなびかせて、鈴を振るような蝉の声がにぶい耳にもこころよく聞こえた。
しばらくして玉藻は成景に送られて出て来た。彼女の口元には豊かな笑みが浮かんでいた。成景の見る前、もうなにも言っている間《ひま》もないので、彼女はただ千枝太郎に目礼して別れた。そのうしろ影が門の外へ消えてゆくのを見送って、千枝太郎はなんだか物足らないような寂しい心持になって、糸にひかれたようにふらふらと樹の下を離れた。そうして、彼女を追うように同じく門の外へ出ると、まだ五、六間とはゆき過ぎない玉藻がけたたましく叫んだ。
「あれ、誰か来て……。助けてくだされ」
その声におどろかされて、きっと見ると、痩せさらばえた一人の老僧が片手に竹の杖を持って、片手に玉藻の袂をしかと掴んでいた。僧は物に狂っているらしい。鼠の法衣《ころも》は裂けて汚れて、片足には草履をはいて片足は跣足《はだし》であった。千枝太郎はすぐに駈け寄って二人のあいだへ割ってはいった。
「おお、千枝太郎どの。ようぞ来てくだされた。この御僧《ごそう》は物に狂うたそうな。不意にわたしを捉えてどこへか連れて行こうとする。どうぞ助けてくだされ」と、玉藻は悩める顔を袖に掩いながら言った。
「御坊《ごぼう》。いかに狂えばとて、女人《にょにん》をとらえてなんの狼藉……」と、千枝太郎は叱るように言った。「静まられい、ここ放されい」
僧はなんにも言わなかった。白い鬚《ひげ》がまだらに伸びて、頬骨の悼《いた》ましく尖った顔に、窪《くぼ》んだ眼ばかりを爛々《らんらん》とひからせて、彼は玉藻の白い襟もとをじっと見つめていた。相手が執念深いので、千枝太郎はいよいよ急《せ》いた。
「ええ、退《の》かれいというに……。ええ、放されい。放さぬか」
彼は相手の痩せた腕をつかんで、力まかせに引き放そうとしたが、命のあらんかぎりと掴んでいるらしい僧の手は容易に解けなかった。血気の若者は焦《じ》れてあせって、折れるばかりにその手を捻じ曲げて、無理にようよう引き放して、突きやると、力の尽きた老僧は枯木のようにばったり倒れた。玉藻はそれを見向きもしないで、急ぎ足
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