も容赦もならぬ。衛府《えふ》の侍どもを召しあつめて、宇治へ差し向けようと思う」
「宇治へ……」と、玉藻は眉をよせた。
「おお、頼長めを誅伐するのじゃ。氏《うじ》の長者を許され、関白の職におる忠通に敵対するやからは謀叛人も同様じゃ。弟とて容赦はない。すぐに人数を向けて攻め亡ぼすまでのことじゃ。信西入道も憎いやつ、今までは我が師と敬うていれば付け上がって、謀叛人の方人《かたうど》となって我に刃向かうからは、彼めも最早《もはや》ゆるされぬ。頼長と時を同じゅうして誅伐する。かれら二人をほろぼせば、その余の徒党は頭のない蛇も同様で、よも何事をも仕得《しえ》まいぞ。侍を呼べ、すぐに呼べ」と、忠通はまなじりを裂いて哮《たけ》った。
「御立腹重々お察し申しまするが、まずお鎮まりくださりませ」
玉藻はさえぎってとめた。今この場合に衛府の侍どもを召されても、かれらが素直に左大臣誅伐の命令に応じて動くかどうかわからない。左大臣の野心はとうに見え透いているものの、これぞと取り立てていうほどの証拠もないのであるから、迂闊にここで事を起こすと、理を以って非に陥るおそれがないでもない。衛府の者どものうちに左大臣や信西入道に心をかよわす者があって、早くもそれを敵に注進されたら、あの精悍な頼長と老獪《ろうかい》な信西とが合体《がったい》して何事を仕向けるかもしれない。あるいは機先を制して、むこうから逆寄《さかよ》せに押しかけて来るかもしれない。下世話《げせわ》のことわざにもある通り、急《せ》いては事を仕損ずる。しょせんは彼らを誅伐するにしても、今しばらく堪忍しておもむろに時機を待つ方が安全であろうと、彼女は賢《さか》しげに忠告した。
それも一応理屈はあった。殊にそれが玉藻の意見であるので、忠通も渋《しぶ》しぶながら納得したので、彼女はほっとしたような顔をしてそこを起《た》った。
その日の午過ぎに玉藻は被衣《かつぎ》を深くして屋形を忍んで出た。清治と女の童の死んだ晩から、さみだれ空はぬぐったように晴れつづいて、俄に夏らしい強い日に照らされた京の町には、もう軽い砂が舞い立っていた。柳のかげには牛をつないで休んでいる人が見えた。玉藻は姉小路の信西入道の屋形をたずねた。
門をはいると、大きい槐《えんじゅ》の梢に蝉が鳴いていた。車溜りのそばには一人の若い男がたたずんで、その蝉の声を聴いているらしく見えた。男は千枝太郎であった。
「千枝太郎どの」
玉藻に呼ばれて、千枝太郎は振り向いた。
「おお、玉藻……」と、彼はすこしく眉を動かしたが、さりげなく会釈した。「晴れたら俄に暑うなった。お身には河原で逢うたぎりじゃが、変わることもないか」
「お前にも変わることはありませぬか」と、玉藻はなつかしそうに言った。「その後にはよい折りがのうて、逢うこともならなかった。して、今はなにしにここへ……。お師匠さまのお供してか」
千枝太郎はうなずいた。彼は明るい夏の日の前で玉藻とむかい合って、きょうこそはその正体をよく見届けようと思ったのである。地に黒く映っている玉藻の影は、やはり普通の女の姿であった。千枝太郎は更に女の顔をじっと視つめると、玉藻は少し羞《は》じらうように顔をかしげて、斜めに男の眼のうちをうかがった。
「お師匠さまはなんの御用じゃ」
「わしは知らぬ」と、千枝太郎は情《すげ》なく言った。
梢の蝉は鳴きつづけていた。二人はしばらく黙っていた。
「お前には一度逢うて、しみじみ話したいこともあるが、よい折りはないものか」と、玉藻はひと足すり寄って訊いた。
懐かしげな、恋しげな、情けの深そうな女の眼をじっと見ているうちに、千枝太郎の胸はなんとなくほてってきた。彼女は果たして魔性《ましょう》の者であろうか。年の若い千枝太郎は師匠の教えを少し疑うようにもなってきた。それでも彼は迂闊に油断しなかった。
「お師匠さまは厳しいで、御用のほかには滅多に外へは出られぬ。それはわしばかりでない。ほかの弟子たちも皆それじゃで是非がない」
「ほんにそうであろうのう」と、玉藻は低い溜息を洩らした。「それでも忍んで出られぬことはあるまいに、たった一度じゃ、逢うて下されぬか。むかしの藻《みくず》じゃ、憎うはあるまい。それともお前、ほかに親しい女子《おなご》でも出来たのか。もう昔の藻を何とも思わぬのか。このあいだも言うた通り、人の身の行く末は知れぬものじゃ。山科の里に一緒に育って、おまえは烏帽子折りの職人になる。わたしも烏帽子を折り習うて……。思えばそれもたがいに幼い同士の夢であった」
千枝太郎の眼の前には、その幼い夢の絵巻物が美しく拡げられた。山科の里の森や川や、それを背景にして仲よく遊んでいた二人の姿も、まぼろしのように浮かび出した。彼はうっとりとして玉藻の顔を今更のように見つめた。そうして、
前へ
次へ
全72ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング