濡れ朽ちてしまった。垂れこめている忠通の頭はくろがねの冠《かんむり》をいただいたように重かった。そうして、むやみに癇がたかぶって、訳もなしにいらいらした。夜もおちおちとは眠られなかった。このままに日を重ねたらば、自分も法性寺の阿闍梨の二の舞いになるのではあるまいかと、自分ながら危ぶまれるようになった。
 家来も侍女共も主人の機嫌が悪いので、みなはらはらしていた。お気に入りの織部清治も毎日叱られつづけていた。ことに彼はさきの日、法性寺へ使いに立ったときに、阿闍梨の容態を確《しか》と見とどけて来なかったがために、大切の法要をさんざんの結果に終わらせたというので、いよいよ主人の機嫌を損じた。そのなかで寵愛のちっとも衰えないのはかの玉藻ひとりで、主人の機嫌がむずかしくなればなるほど、彼女は主人のそばに欠くべからざる人間となって、忠通が朝夕の介抱や給仕はすべて彼女ひとりが承っていた。
「よう降ることじゃ」
 忠通は暮れかかる庭の雨を眺めながら、滅入《めい》るような溜息をついた。
「ほんによう降り続くことでござりまする。河原ももう一面に浸されたとか聞きました」と、玉藻もうっとうしそうに美しい眉を皺めて言った。
「また出水《でみず》か。うるさいことじゃ。出水のあとは大かた疫病《えやみ》であろう。出水、疫病、それにつづいて盗賊、世がまた昔に戻ったか。太平の春は短いものじゃ」
 天下の宰相としてこの苦労は無理ではなかった。二人はまた黙っていると、庭の若葉はだんだんに暗い影につつまれて、溢れるばかりに漲《みなぎ》った池のほとりで蛙がそうぞうしく鳴き出した。
「ああ、世の中がうるそうなった。わしもお暇《いとま》を願うて、いっそ出家|遁世《とんせい》しようか」と、忠通はまた溜息をついた。
「御出家……」と、玉藻は聞き咎めるように言った。「殿が御出家なされたら、あとは誰が代《かわ》らせられまする」
「頼長かな」
「そうなりましたら、左大臣殿は思う壺でござりましょう。現に殿がお引き籠りの後は、かのお人がなにもかも一人で取り仕切って、殿上を我が物顔に押し廻していらるるとやら。今ですらその通り、殿が御隠居遊ばされたら、その後の御威勢は思いやられまする」
「彼のことじゃ。さもあろうよ」と、忠通は苦笑いした。
 その笑いの底には、おさえ難い不満が忍んでいた。日頃からややもすれば兄を凌ごうとする頼長めが、おれの引き籠っているのを幸いに、冠をのけぞらして殿上を我が物顔にのさばり歩く。その驕慢の態度が眼にみえるように思われて、忠通は急にいまいましくなってきた。うかつに遁世して、多年の権力を彼にやみやみ奪われるのは如何にも残念で堪まらないように思われてきた。
「さりとて、わしはこの通りの所労じゃ。頼長が兄に代って何かの切り盛《も》りをするも是非があるまい。余の公家《くげ》ばらは彼の鼻息を窺うばかりで、一人も彼に張り合うほどのものは殿上にあるまいよ」と、忠通は憤るように言った。勢いに付くが世の習いであることを、彼はしみじみと感じた。
 その果敢《はか》ないような顔をじっと見あげて、玉藻はそっと言い出した。
「就きましては、わたくしお願いがござりまするが……」
「あらためてなんの願いじゃ」
「殿の御推挙で采女《うねめ》に召さるるように……」
「ほう、お宮仕えが致したいと申すか」
 忠通はすこし考えた。玉藻ほどの才と美とを具《そな》えていれば、采女の御奉公を望むも無理はない。その昔の小野小町《おののこまち》とてもおそらく彼女には及ぶまい。実は忠通にもかねてその下心《したごころ》があったのであるが、自分の傍《そば》を手放すのが惜しさに、自然|延引《えんいん》して今日《こんにち》まで打ち過ぎていたのである。この際、本人の望むがままに、玉藻を殿上の采女に召させて、彼女の力をかりて頼長めの鼻をくじかせてやろうかとも考えた。忠通も女のひそめる力というものを能《よ》く識《し》っていた。
「望みとあれば、推挙すまいものでもないが……。頼長めが何かと邪魔しようも知れぬぞ」と、忠通はさびしく笑った。
「いえ、その左大臣殿と見事に張り合うて見せます」
「頼長と張り合うか」
「わたくしが殿上に召されましたら、左大臣殿とて……」と、言いさして彼女は、ほほと軽く笑った。
 これはあながちに自讃でない。玉藻ほどの才女ならば、ひそめるその力を利用して、頼長めを殿上から蹴《け》落とすことが出来るかもしれないと、忠通は頼もしく思った。


雨乞《あまご》い

    一

 あくる朝、大納言|師道《もろみち》は関白の屋形に召された。師道は雨を冒《おか》して来た。
「きのうも今日も降りつづいて、さりとは侘《わび》しいことでござる。殿には御機嫌いかがおわします」と、師道はねんごろに関白の容態をたずねた。
「とかく
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