ずいた。
「かずならぬ甥めが後世《ごせ》安楽のために、関白殿が施主《せしゅ》となって大法要を催さるるとは、御芳志は海山《うみやま》、それがしお礼の申し上げようもござらぬ。たとい如何ほどの重病たりとも、当日の導師の務めは拙僧かならず相勤め申す。この趣《おもむき》、殿下へよろしくお取次ぎを……」
見たところは痛ましくやつれているが、その応対にすこしも変わった節は見えないので、清治はまず安心した。すぐに屋形へ戻ってその通りを報告すると、忠通も眉を開いた。
「それほどに申すからは子細はあるまい。当日の用意万端怠るな」
やがてその当日が来た。時の関白殿が施主となって営まるる大法要というのであるから、仏の兼輔に親しいも疎《うと》いもみな袂をつらねて法性寺の御堂《みどう》にあつまった。門前は人と車とで押し合うほどであった。その綺羅《きら》びやかな、そうして壮厳な仏事のありさまをよそながら拝もうとして、四方から群がって来た都の老幼男女も、門前を埋めるばかりにひしひしと詰めよせていた。四月も末に近い白昼《まひる》の日は、このたとえ難い混雑の上を一面に照らして、男の額にも女の眉にも汗がにじんだ。
「ほう、えらい群集《ぐんじゅ》じゃ」と、一人の若者が半ば開いた扇をかざしながらつぶやくと、その声に気がついたように一人の翁が肩を捻じ向けた。
「おお、千枝ま[#「ま」に傍点]でないか。久しいな」
それは山科郷の陶器師《すえものつくり》の翁《おきな》であった。
声をかけられて千枝太郎もなつかしそうに摺り寄った。
「翁よ。ほんに久しいな」
よい相手を見付けたというように、翁も摺り寄ってささやいた。
「お身、藻を見やったか」
「藻……。藻がきょうもここへ見えたか」
「おお、半刻ほども前に、見事な御所車に乗って来た。おれは車を降りるところを遠目に覗いたが、今は玉藻と名が変わっているとやら……。名も変われば人も変わって、顔も姿も光りかがやくばかりの美しさ、おれは天人か乙姫さまかと思うたよ。偉い出世じゃ。いくら昔馴染みでも、もうおれたちはそばへも寄り付かれまい。ははははは」と、翁はむかしとちっとも変わらない、人の善さそうな笑顔をみせた。
藻――それは千枝太郎に取って、堪え難いように懐かしい、しかも身ぶるいするほどに怖ろしい名であった。彼女は果たして魔性の者であろうか。千枝太郎は明かるい日の下で、もう一度彼女の正体を確かに見とどけたいと思った。
「きょうの法会はなんどきに果つるかのう」と、彼は独りごとのように言った。
「申《さる》の刻じゃと聞いている」と、翁は言った。「諸人が退散するまでにはまだ一刻余りもあろうよ」
言ううちに、前の方に詰め寄せていた人々は、物に追われたように俄に崩れて動き出した。その人なだれに押されて、突きやられて、翁と千枝太郎は別れ別れになってしまった。法会は中途で急に終わって、参列の諸人が一度に退散するために、先払いの雑色《ぞうしき》どもが門前の群集《ぐんじゅ》を追い立てるのであった。
法会はなぜ中途で終わったのか。千枝太郎は逢う人ごとに訊いてみたが、誰にも確かなことは判らなかった。しかし衆僧をあつめて読経の最中に、大導師の阿闍梨がなにを見たのか、急に顔の色を変えて額《ひたい》に玉の汗をながして、数珠の緒を切って投げ出して、壇からころげ落ちたというのが事実であるらしかった。
「魔性のわざじゃ」
千枝太郎も顔の色をかえて早々に逃げ帰った。阿闍梨はなにを見て俄に取り乱したのか、おそらく参列の人びとのうちにかの玉藻の妖艶な姿を見いだして、その道心が怪しく乱れ始めたのであろう。生きながら魔道へ引き摺られてゆく阿闍梨の浅ましい宿業《しゅくごう》を悼むと共に、千枝太郎は自分のお師匠さまの眼力の高く尊いのをいよいよ感嘆した。
しかしこれを察したのは千枝太郎の師弟ばかりで、余人の眼にはこの秘密が映らなかった。高徳のひじりが物狂《ものぐる》おしゅうなったのは、天狗の魔障《ましょう》ではあるまいかなどと、ひたすらに恐れられた。そうして、それが日の本の仏法の衰えを示すかのように、口さがない京わらんべは言いはやすので、忠通はいよいよ安からぬことに思った。なまじいのことを企てて、かえって自分の威厳を傷つけたように口惜しく思われた。彼は眼にみえない敵に取り囲まれて、四方からだんだんに圧迫されるような苦しみをおぼえて、その神経はいよいよ尖って来た。この頃の彼は好きな和歌を忘れたように捨ててしまった。政務もとかくに怠り勝ちで、はては所労と称して引き籠った。
ことしの夏は都の空にほととぎすの声は聞こえなかったが、五月雨《さみだれ》はいつもの夏よりも多かった。五月に入ってからは殆んど小やみなしに毎日じめじめと降りつづいて、若葉の緑も腐って流れるかと思うばかりに
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