でなんとでも言い訳は出来るようなものの、かりにも左少弁たる人を河原で暗撃《やみう》ちにしたとあっては、後日の詮議が面倒である。憎い奴ではあるが、さすがに殺すまでにも及ばなかったとも悔まれた。今夜の河原は闇である。この闇にまぎれて逸早《いちはや》くここを立ち退いてしまえば、相手は殺され損で、誰にも詮議はかかるまいと思うと、実雅は俄にあとさきが見られて、あわてて血刀を兼輔の袖でぬぐってそっと鞘《さや》に収めようとすると、うしろからその肩を軽く叩く者があった。ぎょっとして振り返ると、自分のそばには玉藻が立っていた。凄いほどに白い彼女の笑顔は、暗い中にもありありと浮き出して見えた。
「見事になされました」
相手があまりにも落ち着き払っているので、実雅はすこし気味が悪くなって、無言のままで突っ立っていると、玉藻は重ねて言った。
「かたきを仕留められたのは男の面目、見事にも立派にも見えまするが、これからのちを何とせられまする。相手を殺して卑怯にも逃げられますまい」
星をさされて、実雅は又ぎょっとした。彼は太刀を鞘に収めるすべも知らないように、唯ぼんやりと立っていた。
「お身さまも男じゃ、少将どのじゃ。仇の亡骸《なきがら》を枕にして見事に自害なされませ」と、玉藻は命令するように言った。
この怖ろしい宣告を受けて、実雅は我にかえった。しかし彼はその命令に服従する気にはなれなかった。どうで自分の物にならない女ならば、いっそここであわせて玉藻を殺して、後日《ごにち》の口をふさぐ方が利益であると、彼は咄嗟のあいだに思案を決めた。彼はなにか言おうとするように見せかけて、玉藻のそばへひと足|摺《す》り寄ると同時に、手に持っている太刀を颯《さっ》とひらめかせると、刃《やいば》は空《くう》を切って玉藻の姿は忽ち消えた。おどろいて見廻すと、玉藻は彼の左に肩をならべて笑いながら立っていた。
実雅はまた横に払った。その刃もおなじく空を切って、玉藻は更に彼の右に立っていた。彼は焦《じ》れて右を切った。左を切った。うしろを払った。前を薙《な》いだ。彼は独楽《こま》のようにそこらをくるくると廻って、夢中で手あたり次第に切り払ったが、一度も手ごたえはなかった。焦れて狂って、跳り上がって、彼は暗い河原を東西に駈けまわって、果ては狂い疲れてそこにばったり倒れた。倒れるはずみに彼は自分の刃で自分の胸を深く貫いてしまった。
鴨川の水はむせぶように流れていた。暗い河原にひざまずいて、まだ温かい彼の生血《なまち》を吸う者があった。
三
左少弁兼輔と少将実雅とが四条の河原で怪しい死にざまをしたということが、忽ち京じゅうの大きい噂となった。勿論、誰もその事実を知った者はないが、二つの死骸の疵口《きずぐち》から考えると、実雅がまず兼輔を切り殺して、自分はその場から少し距れた川下へ行って自害したものらしく思われた。
下手人も倶《とも》に亡びた以上、別に詮議の仕様もないのであるが、実雅は武人で宇治の左大臣頼長に愛せられていた。兼輔はむしろ関白忠通の昵懇《じっこん》であった。その関係からいろいろの浮説《ふせつ》が生み出されて、実雅と兼輔との刃傷事件は単に本人同士の意趣ではなく、忠通、頼長兄弟の意趣から導かれたかのように言い囃す者も出来た。頼長は別に気にも留めなかったが、この頃いちじるしく神経質になった兄の忠通は、そのままに聞き流していることが出来なかった。彼は厳重に実雅が刃傷の子細を吟味させたが、確かな証拠はとうとう挙がらなかった。
証拠が挙がらないので、自然立ち消えになってしまったが、忠通の胸は安らかでなかった。殊に実雅の方から仕掛けて兼輔を殺したらしいのが猶《なお》なお不快であった。つまり頼長の味方が自分の味方を倒したのである。忠通はそれが何となく面白くなかった。彼は弟から戦いを挑《いど》まれたようにも感じられた。この上はせめてもの心やりと、二つには自分の威勢を示すために、忠通は兼輔の三七日法会《さんしちにちほうえ》を法性寺で盛大に営むことになった。
この時代の習いで法性寺の内に墓地はなかったが、法会は寺内で行なわれた。殊にこの寺は関白の建立《こんりゅう》で、それをあずかる隆秀阿闍梨は兼輔が俗縁の叔父であるから、忠通が彼の法会をここで営むのは誰が眼にもふさわしいことであった。しかしここに一つの懸念は、当日の大導師たるべき阿闍梨その人がこのあいだから物に憑かれたように怪しゅう狂い乱れているという噂であった。
「阿闍梨の容態はどうあろう。見てまいれ」
主人の言い付けで、織部清治は法性寺へ出向いてみると、阿闍梨はその怨念が鼠になったとか伝えられる昔の三井寺の頼豪《らいごう》のように、おどろおどろしい長髪の姿で寝床の上に坐っていた。清治の口上を聴いて、彼は謹んでうな
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