たいことがある。お身が実雅の恋をきかぬ以上、あだし男に心をかよわすことはならぬ。もしその約束を破ったら、その男を生けては置かぬと……」
「それもよう覚えております」
 実雅の手にすがって、玉藻はさめざめと泣き出した。もうこうなれば何もかも白状するが、実は兼輔に迫られて、自分は彼の恋をいれたのである。勿論、そのときに実雅との約束を楯にして、彼女は必死に断わったのであるが、兼輔はどうしても承知しないで、実雅のような愚か者がなんと言おうとも恐るるには及ばぬ。彼が執念深くぐずぐず言ったら、自分がきっと引き受けて二度とは口を明かせぬようにして見せる。なんの、食《く》らい肥りの貧乏公家が何事をなし得ようぞと、彼はさんざんに実雅を罵って、無理無体に彼女を自分の物にしてしまった。思えば女子は弱いもの、その当座は身も世もあられぬほどに悔み悲しんだが、今となってはもうどうすることも出来ないので、彼が誘うままに今夜もうろうろと屋形をぬけ出して来たのである。さぞ憎かろうが、どうぞ堪忍してくれと玉藻は泣いて訴えた。
「それは定《じょう》か、いつわりないか」と、実雅は苛《いら》いらしながら念を押した。
「なんのいつわりを言いましょう。神かけて……」
「よし。思案がある」
 玉藻を突き放して実雅は暗い大路を暴れ馬のように駈けて行った。大きい身体をゆすりながら大股に駈けるのであるから、四条の河原まで行き着いた頃には、ほとんど口も利かれないくらいに息が疲れていたが、それでも柳の下にたたずんでいる人の影を透かし視たときに、彼は喉が裂けるほどの大きい声を振り立てた。
「兼輔、まだそこにか」
 また引っ返して来たのかと、兼輔は肚《はら》のなかで舌打ちした。そうして、暗いのを幸いに、黙ってそこをすり抜けて行こうとすると、水明かりで早くもそれと認めた実雅は、これも無言で駈けつけて、彼が直衣の袖を力任せにぐい[#「ぐい」に傍点]と曳いた。たとい平安時代の殿上人にもせよ、実雅はともかくも武人の少将である、しかも力自慢の大男である。その大男に強くひかれて、孱細《かぼそ》い左少弁は意気地もなくへなへなとそこに引き据えられた。
「やい、兼輔。関白殿の花の宴《うたげ》の夜に、おのれひねり潰してくれようと思うていたが、あいにくの嵐に邪魔されて、そのままに助けて置いたをありがたいとも思わずに、女にむかって人もなげなる広言を吐き散らしたそうな。やい、食らい肥りの貧乏公家とは誰がことじゃ。おれの前で、もう一度確かに言え」
「そりゃ無体の詮議じゃ。われら夢にもさようなことを……」と、兼輔はあわてて打ち消そうとするのを、哮《たけ》り立った実雅は耳にもかけないで、嵩《かさ》にかかって又呶鳴った。
「ええ、なにが無体……。おのれは舌がやわらかなるままに、口から出るに任せてさまざまの雑言《ぞうごん》をならべ、この実雅を塵《ちり》あくたのように言いおとしめたことを、おれはみな知っている。ええ、今さら卑怯に言い抜けようとして、おれには確かな証人があるぞ」
「そのような喚讒《かんざん》を誰が言うた」
「おお、玉藻が言うた。おのれは今宵も無理無体に玉藻をここへ誘い出して、法性寺へ行こうでな。憎い奴め」
 実雅の拳《こぶし》は兼輔の頬を二つ三つ続けて打った。大力に打たれた兼輔は悲しい声をあげて、子供につかまれた子猫のように、相手の膝の下をくぐって逃げようと這いまわるのを、実雅は足をあげて鞠《まり》のように蹴倒した。こうした散ざんの手籠めに逢って、兼輔もさすがに無念であった。もう一つには、このまま彼の手に囚《とら》われていたら、果てはむごたらしいなぶり殺しに逢おうも知れまいという怖れもまじって、彼は足もとに転げている河原の小石をさぐり取って、相手の顔と思うあたりへ三つ四つ投げ付けた。そのうろたえる隙《すき》をみて、彼は飛び起きて逃げようとするのを、実雅はすぐに追い掛けて再びその襟髪を掴んだ。
 嫉妬と憤怒《ふんぬ》にのぼせているところへ、小石の痛い眼つぶしを食わされて、実雅はまったく眼がくらんでしまった。彼は再び恋のかたきを蹴倒して、腰に佩《は》いている衛府《えふ》の太刀に手をかけたかと思うと、闇にきらめいた切っ先は兼輔の烏帽子をはた[#「はた」に傍点]と打ち落として、その小鬢《こびん》を斜めにかすった。
「わッ、人殺しじゃ」
 その声の消えないうちに、二度目の太刀さきは兼輔の頸のあたりを横に払ったので、彼は息もせずにそこにぐたりと倒れた。実雅は片足でそれを二、三度揺り動かしてみたが、兼輔は石のように転《まろ》ばったままで、再び身動きをしそうもなかった。
「はは、もろい奴じゃ。おのれその醜態《ざま》で、実雅の悪口いうたか」
 彼は勝利の満足をおぼえると同時に、一種の不安と後悔とが急に湧き出して来た。死人に口なし
前へ 次へ
全72ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング