ので、千枝太郎は又ぞっとして師匠の顔をみあげると、泰親はさらに説明した。
「思うても怖ろしいことじゃ。お身が河原で玉藻にめぐり逢うたのは、彼女《かれ》が法性寺詣での戻り路であった。左少弁兼輔の案内で、阿闍梨は玉藻に面会せられた。それから後は何とやらん様子が変わって、よそ目には物に憑かれたとも、物に狂うたとも見ゆるとやら。余人はその子細を覚らいで、ただただ不思議のことのように驚き怪しんでいるが、泰親の観るところでは、これもかの悪魔のなす業《わざ》じゃ。まず日本の仏法を亡ぼさんがために碩学高徳の聖僧《ひじり》の魂に食い入って、その道念を掻き乱そうと企てたのであろう。それを知らいで、うかうかとかれの手引きをした左少弁殿も、その行く末はどうあろうのう」
 さきの日、河原で出逢った若い公家が左少弁兼輔であることを、千枝太郎は初めて知った。その当時、彼は一種の妬みの眼を以《も》ってその人を見ていたのであるが、今となっては、彼は憫《あわ》れみの眼を以ってその人を見なければならないようになった。
「しかし、恐るるには及ばぬ。泰親はよい時に生まれあわせた。わしの力で悪魔を取り鎮めて、世の暗闇を救うことが出来れば、末代までも家の誉《ほま》れじゃ」
 泰親は、力強い声で言った。

    二

「阿闍梨も気が狂うたそうな」
 丁度それと同じ頃に、おなじ詞《ことば》が関白の屋形にある玉藻の口からも洩れた。彼女は兼輔の文《ふみ》によってそれを知ったらしく、その文を繰り返して見入っていた。文は阿闍梨の病気のことを報らせて、自分は今夜その見舞いに法性寺へ参ろうと思うが、お身も一緒にまいらぬかという誘いの文句であった。
 阿闍梨と兼輔とは叔父甥の親しい仲である。それが唯ならぬ病いに悩んでいると聞いたらば、何を差しおいても直ぐに見舞うべき筈であるのに、わざわざ女子《おなご》を誘ってゆく。しかも夜を択んでゆく。兼輔の本心が叔父の病気見舞いでないことは見え透いていたが、玉藻は躊躇せずに承知の返事をかいた。しかし若い男がたびたび誘いに来られては、主人の手前、余人の思惑、自分もまことに心苦しいから、四条の河原で待ち合わせてくれと言ってやった。
 日の暮れるのを待って、玉藻は屋形を忍んで出た。暦はもう卯月《うづき》に入って、昼間から雨気《あまけ》を含んだ暗い宵であった。その昔、一条戻り橋にあらわれたという鬼女《きじょ》のように、彼女は薄絹の被衣《かつぎ》を眉深《まぶか》にかぶって、屋形の四足門からまだ半町とは踏み出さないうちに、暗い木の蔭から一人の大きい男が衝《つ》と出て来て、渡辺の綱のように彼女の腕をしっかりと掴んだ。
「あれ」
 振り放そうともがいても、男はなかなかその手をゆるめなかった。彼は小声に力をこめて言った。
「騒がれな、玉藻の前。暗うても声に覚えがござろう。われらは実雅じゃ」
「おお。少将どのか」と、玉藻はほっとしたらしかった。「わたくしは又、鬼か盗人かと思うて……」
「その鬼よりも怖ろしいかもしれぬぞ」と、実雅は暗いなかであざ笑った。「お身はこの宵にどこへ参らるる」
 玉藻は立ちすくんで黙っていた。
「法性寺詣でか、兼輔と連れ舞うて……。はは、何をおどろく。お身たちのすること為《な》すこと、この実雅の耳へはみな筒抜けじゃ。われらが今宵、大納言|師道《もろみち》卿の屋形へ歌物語を聴きにまいろうと存じて、四条のほとりへ来かかると、兼輔めが人待ち顔にたたずんでいる。何してじゃと問えば、これから法性寺へ叔父御の見舞いにゆくという。その慌てた口ぶりがどうやら胡乱《うろん》に思われたので、五、六間も行き過ぎて又見返ると、彼はまだ行きもやらじに立ち明かしている。さてはここに連れの人を待ち合わせているのかと思うと、すぐに覚ったは玉藻の御《ご》、お身のことじゃ。それから足を早めてここの門前へ来て、さっきから出入りを窺うていたとは知らぬか。さあ真っ直ぐに言え、白状せられい」と、実雅ははずむらしい息を努めて押し鎮めて、女の細い腕を揺すぶりながら訊いた。
「そう知られては隠しても詮《せん》ないこと。まこと今宵は左少弁殿と言いあわせて、法性寺詣でに忍び出たに相違ござりませぬ」
「むむ。相違ないか」と、大きいからだをふるわせて実雅は唸った。「お身は先月も兼輔めと連れ立って法性寺へまいったというが、確かにそうか」
 それも嘘ではないと玉藻は答えた。しかしそれは隆秀阿闍梨の教化をうけたいために兼輔の案内を頼んだので、ほかには別に子細はないと言ったが、実雅は素直にそれは肯《き》き入れなかった。現にこのあいだの花の宴《うたげ》にも、自分は彼と玉藻との密会を遠目に見ている。今更そんなあさはかな拵え事で、自分を欺くことはできまいと又あざ笑った。
「就《つ》いては、少将実雅があらためてお身に訊き
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