ゃ。信西入道からかの殿に申し勧めて、玉藻をまず関白殿の屋形から遠ざけ、さてその上で悪魔調伏の秘法を行ない、とこしえに禍いの種を八万奈落の底に封じ籠めてしまわねばならぬ。その折柄《おりから》にお身がうかうかと再びその悪魔に近づいて、なにかの秘密を覚られたら我われの苦心も水の泡じゃ。悪魔は人間よりも賢い。それと覚ったら又どのような手だてをめぐらそうも知れぬ。きょうは自然のめぐりあいで、まことに余儀ない破目《はめ》であるが、これを機縁に再び彼女《かれ》と親しゅうするなど夢にもならぬことじゃと思え。この教えに背いたらお身の命はかならず亡ぶる。きっと忘れまいぞ」
「ありがたい御教訓、胆《きも》にこたえて決して忘れませぬ」と、千枝太郎は尊い師匠の前で立派に誓った。
「わかったかな」と、泰親はまだ危ぶむような眼をしていた。
「判りました」
 半分は夢のような心持で、千枝太郎は師匠の前を退がった。自分の部屋へ戻って、彼は机の前に坐ったが、あまりに思いも付かない話をだしぬけに聴かされたので、彼の頭は恐怖と驚異とに混乱してしまった。あの可愛らしい藻、あの美しい玉藻、それに怖ろしい悪魔のたましいが宿っているなどとは、どう考えても信じられない不思議であった。いかに神のようなお師匠さまの眼にも何かの陰翳《くもり》が懸かっているのではあるまいかと、彼も一度は疑った。
 しかし、だんだん考え詰めているうちに、いろいろの記憶が彼の胸によみがえってきた。藻はゆくえをくらまして、昔から祟りがあると伝えられている古塚の下に眠っていたこともある。陶器師の婆の話によれば、藻は白い髑髏《されこうべ》をひたいにかざして暗い川端に立っていたこともあるという。しかもそれを話した婆は、やはり古塚のほとりで怪しい死に方をしていた。またそればかりでない。近い頃にも関白殿の花の宴《うたげ》に、玉藻のからだから不思議の光りを放って暗い夜を照らしたという噂もある。それやこれやを取り集めて考えると、玉藻が普通の人間ではないらしいという判断も、決して拠りどころのない空想ではなかった。
「かりにもお師匠さまを疑うたのはわしの迷いであった。玉藻は悪魔じゃ。いつぞやの夢に見た天竺、唐土の魔女もやはり玉藻の化身《けしん》に相違あるまい」
 そう気がつくと、千枝太郎は急に身の毛がよだつほどに怖ろしくなった。彼は屋敷に召し使われている女子《おなご》から鏡を借りて来て、自分の顔をつくづくと映してみた。彼は幾たびか眼を据えて透かして視たが、自分の若々しい顔の上から死相を見いだすことは出来なかった。かれは溜息と共に鏡を投げ出した。
「陰陽師、身の上知らずとはこれじゃ」
 それにつけても師の泰親は万人にすぐれて偉い、尊い人であると、彼は今更のように感心した。信西入道も偉いと思った。彼は自分の学問未熟を恥ずると共に、師匠や信西を尊敬するの念がいよいよ深くなった。こうした尊い師匠に救われて、親しくその教えをうけているおのれは、いかに幸いであるかということも、しみじみと考えさせられた。
「なんでもお師匠さまのお指図通りにすればよいのじゃ」と、今の彼はこう素直に考えるよりほかはなかった。
 実をいえば、さっき河原で玉藻に別れるときに、女はそこへ来あわせた若い公家《くげ》の手前を憚って、口ではなんにも言わなかったが、その美しい眼が明らかに語っていた。それは近いうちに又逢おうという心であることを千枝太郎は早くも覚った。彼もおなじ心を眼で答えて別れた。しかし今となっては、もうそんなことを考えるさえも怖ろしかった。自分はその一刹那から再び怪異《あやかし》に憑かれたのであった。彼はこれから一七日《いちしちにち》の間、斎戒《さいかい》して妖邪の気を払わなければならないと思った。
 自分にはお師匠さまという者が付いている――こう思うと、彼は又俄に心強くもなった。未熟な自分の力ではとてもその妖魔に打ち勝つことは覚束ないが、お師匠さまの力を仮りればかならず打ち勝つことが出来る。お師匠さまもまたそれに苦心していられるのであるから、及ばずながらも自分はお師匠さまに力を添えて、ともどもに悪魔調伏に一心を凝らさなければならない。悪魔がほろぶれば自分ひとりの命が救われるなどという小さい事ではない、この日本の国を魔界の暗闇から救うことも出来るのである。彼は一生の勇気を一度に振るい起こして、悪魔と向かい合って闘わなければならないと、強い、強い、健気《けなげ》な雄々しい決心をかためた。彼はその夜の更けるまで机に正しく坐って、一心不乱に安倍晴明以来の伝書の巻を読んだ。
 それから十日《とおか》ほど経って、泰親は外から帰ってくると、そっと千枝太郎を奥へ呼んだ。
「法性寺の阿闍梨も気が狂うたそうな」
 阿闍梨もという言葉に深い意味が含まれているらしく聞こえた
前へ 次へ
全72ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング