《も》つまいと言われたが、その卜占《うらない》はたしかにあたった」
「お師匠さまはそのように申されたか」と、玉藻の瞳はまた動いたが、やがて感嘆の太息《といき》をついた。「卜占に嘘はない。お師匠さまは神のようなお人じゃ」
「それは世にも隠れのないことじゃ。四年このかた、わしもおそばに仕えて何もかも知っているが、お師匠さまが空を見て雨ふるといえばきっと降る。風ふくといえばきっと吹く。あつい襖を隔てて他人《ひと》のすること一から十まで言い当てらるる。お師匠さまが白紙《しらかみ》を切って、印をむすんで庭に投げられたら、大きい蟆《ひき》めがその紙に押しつぶされて死んでしもうた」
玉藻はおそろしそうに身をすくめた。
しだれた柳の葉は川風にさっとなびいて、雨のしずくをはらはらと振り落とすのを、千枝太郎は袖で払いながら又言った。
「現にきょうもじゃ。お師匠さまは雨具の用意してゆけと言われたを、近い路じゃと油断して、そのままに出て来ると直ぐにこれじゃ。ほんに思えばおそろしい」
「お前もその怖ろしい人にならるるのか」と、玉藻はあやぶむように男の顔をじっと見つめた。
「おそろしいのでない。まことに尊いのじゃ。わしもせいぜい修業して、せめてはお師匠さまの一の弟子になろうと念じている」
「それもよかろう。じゃが……」
玉藻はなにか言い出そうとして、ふと向こうを見やると、二つの笠を持った兼輔が河原づたいに横しぶきのなかを駈けて来た。
「おお、わたしの連れが笠を借りて戻った。千枝太郎殿、また逢いましょうぞ」
言う間《ひま》に兼輔はもう近づいた。柳の雨に濡れて立つ美女を前にして、若い公家と若い陰陽師とは妬ましそうに眼をみあわせた。
采女《うねめ》
一
千枝太郎泰清は柳の雨にぬれて帰った。播磨守泰親の屋敷は土御門《つちみかど》にあって、先祖の安倍晴明以来ここに年久しく住んでいた。
「唯今戻りました」
「ほう、いこう濡れて来た。笠を持たずにまいったな」と、泰親は自分の前に頭をさげた若い弟子の烏帽子をみおろしながらほほえんだ。
「おことばにそむいて笠を用意せずに出ました」と、千枝太郎は恐れ入ったように再び頭をさげた。
「いや、懲《こ》るるのも修業の一つじゃよ」
事もなげに又笑った泰親の優しげな眼の色は見るみる陰った。彼は扇を膝に突き立てて、弟子の顔を睨むように見つめた。
「お身は途中で誰に行き逢うた」
千枝太郎はぎょっとした。しかも何事にも見透しの眼を持っている、神のような師匠の前で、彼はいつわりを言うべきすべを知らなかった。彼は河原で玉藻の藻《みくず》に偶然出逢ったことを正直に白状すると、泰親は低い溜息をついた。
「わしもそう見た。お身は再び怪異《あやかし》に憑かれたぞ。心《こころ》せい」
言い知れない恐怖におそわれて、千枝太郎は息をつめて身を固くしていると、泰親はあわれむように、また諭《さと》すように言い聞かせた。
「お身はあやかしに一度|憑《つ》かれて、危うく命を亡《うしな》おうとしたことを今も忘れはせまい。その後は一心に修業を積んで、年こそ若けれ、ゆくゆくは泰親の一の弟子とも頼もしゅう思うていたに、きょうは俄にお身の相好《そうごう》が変わって見ゆる。みだりに嚇《おど》かすと思うなよ。お身のおもてには死の相がありありと現われているとは知らぬか。お身をいとしいと思えばこそ、泰親かねて存ずる旨をひそかに言うて聞かすが、誓って他言無用じゃぞ」
くれぐれも念を押しておいて、泰親は日ごろ自分の胸にたくわえている一種の秘密を打ち明けた。それはかの玉藻の身の上であった。泰親はさきに山科の玉藻の住家を凶宅とうらなって、それからだんだん注意していると、玉藻という艶女《たおやめ》は形こそ美しい人間であれ、その魂には怖ろしいあやかしが宿っている。悪魔が彼女の体内に隠れ棲んでいる。それを知らずに、関白殿は彼女を身近う召し出されて、並なみならぬ寵愛を加えられている。その禍いが関白殿の一身一家にとどまれば未《ま》だしものことであるが、悪魔の望みは更にそれよりも大きい。それからそれへと禍いの種をまき散らして、やがてはこの日本を魔界の暗黒に堕《おと》そうと企てているのである。――こう話してきて、泰親は一段とその声をおごそかにした。
「お身に心せいというのはこのことじゃ。広い都にかの女性《にょしょう》を唯者《ただもの》でないと覚っているものは、この泰親のほかにまだ一人ある。それは少納言の信西入道殿じゃ。かの御仁《ごじん》も天文人相に詳しいので、とかくに彼女《かれ》を疑うて、さきの日わしに行き逢うた折りにもひそかに囁かれたことがある。関白殿はもうかれに魂を奪われていれば、とても一応や二応の御意見で肯《き》かりょうとも思われぬが、唯ひとつの頼みは弟御の左大臣殿じ
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