勿論、男の方では女の消息をみな知っていた。関白どのに召されて寵愛を一身にあつめて、玉藻の前と世の人びとに持て囃《はや》されていることは、彼の耳にも眼にも触れていた。しかもこうして顔を突きあわせて、親しく物を言いかけるのは実に四年目であった。怨めしいと懐かしいとが一つにもつれ合って、かれは容易にことばも出なかったのである。
 むかしの我が名を呼びかけられても、玉藻は返事もしなかった。千枝松はまたひと足進み寄って言った。
「玉藻の前と今ではお言やるそうな。幼な馴染みの千枝松をよもや忘れはせられまいが……」
「久しゅう逢いませぬ」と、玉藻もよんどころなしに答えた。
「お身の出世は蔭ながら聞いている。果報《かほう》めでたいことじゃ」
 めでたいという詞《ことば》の裏には一種の怨みを含んでいるらしいのを、相手は覚らないように軽くほほえんだ。
「ほほ、羨まるるほどの果報でもござらぬ。お前がむかしの意見も思い当たった。上《うえ》つかたの御奉公もなかなか辛い苦しいもの、察してくだされ。して、こなたはやはり叔父御と一つに暮らしていやるのか」
「いや、わしは烏帽子折りの職人をやめて、日本じゅうに隠れのないお人のお弟子になった」と、千枝松は誇るように答えた。
「そのお師匠さまはなんというお人じゃ」
「陰陽師《おんみょうじ》の播磨守泰親どのじゃ」
「おお、安倍泰親《あべのやすちか》どのか」
 玉藻の顔色はさっと変わったが、忽ちもとにました柔らかい笑顔にかえった。
「それは仕合わせなこと。おまえは堅い生まれ付きじゃで、よいお師匠をもたれたら、行く末の出世は見るようじゃ。して、お前も男になって、今もむかしの名を呼ばれてござるのか」
「千枝松という名はあまりに稚《おさな》げじゃと仰せられて、お師匠さまが千枝太郎と呼びかえて下された。しかも泰親の一字を分けて、元服の朝から泰清《やすきよ》と呼ばるるのじゃ」
「千枝太郎泰清……ほんに立派な名乗じゃ。名もかわれば人柄も変わって、むかしの千枝ま[#「ま」に傍点]とは思われぬ」と、玉藻もさすがに懐かしそうに、むかしの友達の大人びた姿を眺めていた。
 藻に捨てられた悲しみと、病いにさいなまるる苦しみとに堪えかねて、千枝松は若い命を水の底に沈めようとしたのであったが、運の強い彼は通りかかった泰親に救われた。泰親は彼を憫れんだ。ことに彼の慧《さか》しげなのを見て、泰親は叔父夫婦にも子細をうちあけて、彼を自分の弟子として取り立ててみたいと言った。都はおろか、日本《にっぽん》じゅうに隠れのない、名家の弟子のかずに入ることは身のほまれであると、千枝松は涙をながして喜んだ。叔父たちにも異存はなかった。
 禍いが却って福となった烏帽子折りの少年は、それから泰親の門に入って、天文を習った。卜占《うらない》を学んだ。さすがは泰親の眼識《めがね》ほどあって、年にも優《ま》して彼の上達は実に目ざましいもので、明けてようよう十九の彼は、ほかの故参の弟子どもを乗り越えて、やがては安倍晴明以来の秘法という悪魔|調伏《ちょうぶく》の祈りをも伝えらるるほどになった。彼は泰親が秘蔵弟子の一人であった。
 それほどの事情を詳しく知らないまでも、むかしの千枝ま[#「ま」に傍点]が今は千枝太郎泰清と名乗っていることが、玉藻に取っては意外の新発見であるらしかった。彼女はこの昔の友に対して、過去の罪を悔むような打ちしおれた気色《けしき》をみせた。
「のう、千枝太郎どの。お前はさぞ昔の藻を憎い奴と思うでござろうのう。わたしもまだその頃は幼な心の失《う》せいで、お宮仕えの、御奉公のと唯ひと筋にあこがれて、お前を振り捨てて都へ上《のぼ》ったが、くどくも言う通り御奉公は辛い切《せつ》ないもの、山科の田舎で気ままに暮らした昔が思い出されて、今更しみじみ懐かしい。お前とてもそうであろう。泰親殿は気むずかしい、弟子たちの躾《しつ》けかたもきびしいお人じゃと聞いている。朝夕の奉公に定めて辛いことも数《かず》かずあろう。出世の、果報のと羨まれても、それがなんの身の楽になることか。おたがいに辛いうき世じゃ」
 昔を忍ぶようにしみじみと託《かこ》たれて、千枝太郎もなんだか寂しい心持になった。女に対する年ごろの積もる怨みは次第に消えて、彼はいつかその人を憫れむようになって来た。彼はもう執念深く彼女を責める気にもなれなかった。
「父御《ててご》はあの明くる年に死なれたそうな」と、彼は声を沈ませて言った。
「おお、御奉公に出た明くる年の春の末じゃ。関白殿のお指図で典薬頭《てんやくのかみ》が方剤《ほうざい》を尽くして、いろいろにいたわって下されたが、人の命数は是非ないものでのう」と、玉藻も今更のように眼をうるませた。
「お師匠さまが山科の家の門《かど》に立って、これは凶宅じゃ、住む人の命は保
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