弄《なぶ》りなさるか。その日の風にまかせて、きょうは東へ、あすは西へ、大路《おおじ》の柳のように靡《なび》いてゆく、そのやわらかい魂が心もとない。なにがしの局《つぼね》、なにがしの姫君と、そこにも此処にも仇《あだ》し名を流してあるく浮かれ男《お》のお身さまと、末おぼつかない恋をして、わが身の果ては何となろうやら」
「なんの、なんの」と、男は小声に力をこめて言った。「むかしは昔、今は今じゃ。兼輔の恋人はもうお身ひとりと決めた。鴨川の水がさかさに流るる法もあれ、お身とわれらとは尽未来《じんみらい》じゃ」
「それが定《じょう》ならばどのように嬉しかろう。その嬉しさにつけても又一つの心がかりは、数ならぬわたくしゆえにお身さまに由《よし》ない禍いを着《き》しょうかと……」
「由ない禍い……。とはなんじゃ」
玉藻は黙ってうつむいていると、兼輔はやや得意らしく又訊いた。
「お身と恋すれば他《ひと》の妬《ねた》みを受くる……それは我らも覚悟の前じゃ。諸人に妬まるるほどで無うては恋の仕甲斐がないともいうものじゃ。妬まるるは兼輔の誉《ほま》れであろうよ。それがために禍いを受くるも本望……と我らはそれほどまでに思うている。恋には命も捨てぬものかは」
「そりゃお身の言わるる通りじゃ」と、玉藻は低い溜息をついた。「じゃというて、お身さまに禍いの影が蛇のように付きまとうているのを、どうしてそのままに見ていらりょう」
「じゃによって訊いている。その禍いの影とはなんじゃ。禍いの源はいずこの誰じゃ」
「少将どのじゃ」
「実雅《さねまさ》か」と、兼輔は眼をみはった。
少将実雅はかねて自分に恋していたと玉藻は語った。恋歌《こいか》も艶書《えんしょ》も千束《ちつか》にあまるほどであったが、玉藻はどうしてもその返しをしないので、実雅はしまいにこういう恐ろしいことを言って彼女をおびやかした。自分の恋を叶えぬのはよい。その代りにもしお身が他の男と恋したのを見つけたが最後、かならずその男を生けては置かぬ。実雅は彼と刺し違えても死んで見するぞと言った。殿上人とはいえ、彼は代々武人である。殊にいちずの気性であるから、それほどのこともしかねまい。自分が兼輔のために恐れているのはその禍いであると、玉藻は声をひそめて話した。
そう言われると思い当たることがないでもない。現に関白殿の花の宴《うたげ》のゆうべに、彼は自分と玉藻との語らいをぬすみ聴いていたらしく、それを白状せよと迫って土器《かわらけ》をしい付けた。そのとき彼はなにげなく笑っていたが、その笑みの底には刃《やいば》を含んでいたかもしれない。こっちの返事次第で或いは刺し違える料簡であったかもしれない。こう思うと、兼輔は俄にぞっとした。気の弱い彼は、もう実雅に胸倉をとられて、氷のような刃を突き付けられたようにも感じられた。
二人はしばらく黙って、九条の河原を北にむかって辿ってゆくと、うす暗い空をいよいよ暗く見せるような糺《ただす》の森が、眼のさきに遠く横たわっていた。聖護院《しょうごいん》の森ももう夏らしい若葉の黒い影に掩われていた。ほととぎすでも啼《な》きそうなという心で、二人は空へ眼をやると、その眉の上に細かい雨のしずくが音もなしに落ちてきた。
「ほう、降ってきたか」
兼輔は牛車《ぎっしゃ》に乗って来なかったのを悔んだ。恋しい女と連れ立ってゆく物詣《ものもう》でには、かえって供のない方が打ち寛《くつろ》いでよいとも思ったので、きょうはわざと徒歩《かち》で来たのであるが、この俄雨に逢って彼はすこし当惑した。自分はともあれ、玉藻を濡らしたくないと思ったので、彼は扇をかざしながらあたりを見まわした。
「しばらく此処《ここ》に待たれい。強く降らぬ間に笠を求めてまいる」
河原の柳の下蔭に玉藻をたたずませて置いて、彼は人家のある方へ小走りに急いで行った。雨の糸はだんだんに繁くなって、彼の踏んでゆく白い石の色も変わってきた。玉藻は薄い被衣《かつぎ》を深くかぶって、濡れた柳の葉にその細い肩のあたりを弄《なぶ》らせながら立っていると、これも俄雨に追われたのであろう。立烏帽子のひたいに直衣《のうし》の袖をかざしながら急ぎ足にここを通り過ぎる人があった。彼は柳のかげに佇《たたず》んでいる女の顔を横眼に見ると、ひき戻されたように俄に立ち停まった。
玉藻もその人と顔をみあわせた。彼は千枝松であった。しばらく見ないうちに彼はもう立派な男になって、その男らしい顔がいよいよ男らしくなっていた。彼が昔の烏帽子折りでないことは、その清げな扮装《いでたち》を見てもすぐに覚られた。
しかし千枝松は黙って立っていた。玉藻も黙って眼を見合っていた。
「藻でないか」と、しばらくして男は声をかけながら近寄った。
藻と千枝松は四年振りでめぐり逢ったのである。
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