とを、阿闍梨はきょうという今日つくづく覚って、おもわず長い溜息をついた。
「さるにてもお身、何人《なんぴと》に就いてこれほどの修業を積まれしぞ」
玉藻は幼いころから父に教えられて経文を読み習った。それから清水寺の或る僧に就いて少しばかりは学んだ。そのほかには、別にこうという修業を積んだこともなくてお恥ずかしいと言った。
「わたくしのような修業のあさい者にも、ひじりの教えをうけたまわることがなりましょうか」
「なる、なる」と、阿闍梨は幾たびかうなずいた。「たとい女人ともあれ、お身ほどの御仁なら我ら求めても法を説き聞かせたい。御奉公の暇々《ひまひま》にはたずねて参られい」
思いのほかに叔父の機嫌が直ったので、そばに聴いている兼輔もほっとした。彼はこれほどの才女を叔父に紹介したということに就いて一種の誇りを覚えた。それと同時に、日ごろ頑固《かたくな》な叔父の鼻を捻《ね》じ折ったような一種の愉快をも感じた。彼は口の上の薄い髭を撫でながらほくそえんだ。
「叔父上、今からはこのみ寺にも女人禁制の掟《おきて》が解かれましょうな」
「それは人による」と、阿闍梨もほほえんだ。「これほどの女人がほかにあろうか」
言いかけて、彼は玉藻と眼をみあわせると、血の枯れた老僧の指先はおのずとふるえて、数珠はさらさらと音するばかりに揺れた。玉藻の顔色にばかり眼をつけていた兼輔はそれに気がつかないらしかった。
「では、かさねて参ります。かならずお逢いくだりませ」
又の日を約束して、玉藻は阿闍梨の前を退がった。兼輔も一緒に立った。阿闍梨は縁まで出ていつまでも見送っていたが、枯木のような彼は急に若やいだ心持になって、総身の血汐が沸くように感じられた。彼は燃えるような眼をあげて夢ごころに陰った空を仰いでいると、なま暖かい春風が法衣《ころも》をそよそよと吹いた。何とは知らず、彼は幾たびか溜息をついて、酔ったような足どりで本堂の方へゆくと、昼でも薄暗い須弥壇《しゅみだん》の奥には蝋燭の火が微かにゆらめいて、香の煙りがそこともなしに立ち迷っていた。その神秘的の空気のうちに、阿闍梨はだまって坐った。
彼はいつものように観音経を誦《ず》し出そうとしたが、不思議に喉《のど》が押し詰まったようで、唱え馴れた経文がどうしても口に出なかった。胸は怪しくとどろいてきた。ふと見上げると、正面の阿弥陀如来の尊いお顔がいつの間にか玉藻のあでやかなる笑顔と変わっていた。阿闍梨は物に憑《つ》かれたようにわなわなと顫《ふる》え出した。彼はもう堪まらなくなって、物狂おしいほどの大きい声で弟子の僧たちを呼びあつめた。
「すこし子細がある。お身たち一度に声をそろえて高らかに観音経を唱えてくりゃれ」
大勢の僧は行儀よく居並んだ。読経《どきょう》の高い声は一斉に起こった。数珠の音もさらさらと響いた。それに誘い出されて、阿闍梨も共に声を張り上げようとしたが、彼の舌はやはりもつれて自由に動かなかった。彼の胸は不思議に高い浪を打った。
「蝋燭を増せ。香を焚け」
彼は苦しい声を振り絞ってまた叫んだ。蝋燭の数は増されて、須弥壇《しゅみだん》はかがやくばかりに明るくなった。阿弥陀如来の尊像はくすぶるばかりの香りの煙りにつつまれた。その渦まく煙りのなかに浮き出している円満|具足《ぐそく》のおん顔容《かんばせ》は、やはり玉藻の笑顔であった。阿闍梨は数珠を投げすてて跳り上がりたいほどに苛《いら》いらしてきた。彼のひたいからは膏汗《あぶらあせ》がたらたら流れた。
「銅鑼《どら》を打て。鐃鉢《にょうばち》を鳴らせ」
いろいろの手段によって漲《みなぎ》り起こる妄想を打ち消そうとあせったが、それもこれも無駄であった。あせればあせるほど、彼の道心《どうしん》をとろかすような強い強い業火《ごうか》は胸いっぱいに燃え拡がって、玉藻のすがたは阿闍梨の眼先きを離れなかった。日ごろ嘲り笑っていた志賀寺《しがでら》の上人《しょうにん》の執着も、今や我が身の上となったかと思うと、阿闍梨はあまりの浅ましさと情けなさに涙がこぼれた。庭の上にも阿闍梨の涙とおなじような雨がほろほろと降ってきた。
彼は法衣《ころも》の袖に涙を払って、もう一度恐る恐るみあげると、如来のお顔はやはり美しい玉藻であった。一代の名僧の尊い魂はこうして無残にとろけていった。
三
「きょうはきついお世話でござりました」
法性寺の門を出ると、玉藻は兼輔に言った。兼輔もきょうの首尾を嬉しく思った。
「頑固《かたくな》な叔父御もお身に逢うてはかなわぬ。まして初めから魂のやわらかい我らじゃ。察しておくりゃれ」
彼は玉藻に肩をすり寄せて、女の髪の匂いを嗅《か》ぐように顔を差しのぞいてささやくと、玉藻は顔をすこし赤らめてほほえんだ。
「又そのようなことを言うてはお
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