にあさっていた。
 叔父と甥との打ち解けた間柄であるので、兼輔はすぐに奥の書院へ通されて、隆秀阿闍梨とむかい合って坐った。阿闍梨はもう六十に近い老僧で、関白家建立のお寺のあるじには不似合いの質素な姿であったが、高徳の聖《ひじり》と一代に尊崇されるだけの威厳がどこやらに備わって、打ち解けた仲でも兼輔の頭はおのずと下がった。
「左少弁どの、久しゅう逢わなんだが、変わることものうてまずは重畳《ちょうじょう》じゃ。きょうは一人かな」
「いや」と、言いかけて兼輔は少し口ごもった。
「連れがあるか」と、阿闍梨は俄に気がついたように甥の顔をきっと見た。「お身のつれは女子《おなご》でないか」
 星をさされて、兼輔はいよいよ怯《ひる》んだが、叔父にいやな顔をされるのはもとより覚悟の上であるので、彼はかくさず答えた。
「余人でもござりませぬ。関白殿|御内《みうち》に御奉公する、玉藻という女子でござりまする」
 関白殿をかさに被《き》て、彼はかたくなな叔父をおさえつけようとしたが、それは手もなく刎ね返されてしまった。
「たとい御内の御仁《ごじん》であろうとも、わしは女子に逢わぬことに決めている。対面はならぬと伝えてくりゃれ。それは関白殿にもよう御存じの筈じゃ」
 ふだんはともあれ、きょうの兼輔はそれでおめおめと引き退がるわけにはいかなかった。かれは玉藻に教えられた提婆品《だいばぼん》を説いた。八歳の龍女|当下《とうげ》に成仏の例《ためし》をひいて、たとい罪業のふかい女人《にょにん》にもあれ、その厚い信仰にめでて、一度は対面して親しく教化をあたえて貰いたいと、しきりに繰り返して頼んだ。しかし叔父は石のように固かった。
「いかに口賢《くちさかし》う言うても、ならぬと思え。面会無用じゃとその女子に言え」
「叔父さまはその女子を御存じない故に、世間の女子と一つに見て蛇《じゃ》のようにも忌み嫌わるるが、かの玉藻と申すは……」
「いや、聞かいでも大方は知っている。世にも稀なる才女じゃそうな。才女でも賢女でも我らの眼から見たら所詮《しょせん》は唯の女子とかわりはない。逢うても益ない。逢わぬが優《ま》しじゃ」
 なんと言っても強情に取り合わないので、兼輔も持て余した。今更となって自分の安受け合いを後悔した彼は、玉藻にあわせる顔がないと思った。といって、この頑固《かたくな》な叔父を説き伏せるのは、なかなか容易なことではないので、彼も途方にくれて窃《ひそ》かに溜息をついていると、遠い入口に待たせてあるはずの玉藻がいつの間にここまで入り込んで来たのか、板縁伝いにするりと長い裳《もすそ》をひいて出た。
 兼輔はすこし驚いた。阿闍梨は眼を据えて、今ここへ立ち現われた艶女《たおやめ》の姿をじっと見つめていると、玉藻はうやうやしくそこに平伏した。
「はじめてお目見得つかまつりまする」
 老僧は会釈もしなかった。彼はしずかに数珠を爪繰っていた。
「委細は左少弁殿からお願い申し上げた通りで、あまりに罪業《ざいごう》の深い女子の身、未来がおそろしゅうてなりませぬ。自他平等のみ仏の教えにいつわりなくば、何とぞお救いくださりませ」と、玉藻は哀れみを乞うように訴えた。
 彼女は物詣でのためにきょうは殊更に清らかに粧《つく》っていた。紅や白粉《おしろい》もわざと淡《うす》くしていた。しかもそれが却って彼女の艶色を増して、玉のような面《おもて》はいよいよその光りを添えて見られた。堪えられぬ人間の悲しみを優しいまなじりにあつめたように、彼女はその眼をうるませて阿闍梨の顔色を忍びやかに窺ったときに、老僧の魂《たま》の緒《お》も思わずゆらいだ。彼は生ける天女のようなこの女人を、無下《むげ》に叱って追い返すに忍びなくなった。
「お身、それほどにも教化を受けたいと望まるるのか」と、阿闍梨は声をやわらげて言った。
 玉藻は無言で手をあわせた。彼女の白い手首にも水晶の数珠が光っていた。
「して、これまでに経文《きょうもん》など読誦《どくじゅ》せられたこともござるかな」と、阿闍梨はまた訊いた。
 もとより何のわきまえのない身ではあるが、これまで経文の片端ぐらいは覗いたこともあると、玉藻は臆せずに答えた。阿闍梨は試みに二つ三つの問いを出してみると、彼女は一いち淀みなしに答えた。さらに奥深く問い進んでゆくと、彼女の答えはいよいよ鮮かになった。いかに執心といっても所詮《しょせん》は女子である。殊に見るところが年も若い。自分たちが五十六十になるまでの苦しい修業を積んで、ようようにこのごろ会得《えとく》した教理をいつの間にどうして易《やす》やすと覚ったのか。阿闍梨は彼女を菩薩の再来ではないかとまでに驚き怪しんだ。世にはこうした女子もある。今までいちずに女人を卑しみ、憎み、嫌っていたのは、自分の狭い眼《まなこ》であったこ
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