して、鬢《びん》の毛でも掻きむしりたいように、両手で烏帽子のふちをおさえて頭を二、三度強くふった。その神経のだんだんに昂奮して来るのを、玉藻はいたましそうな眼をしてそっと窺っていたが、いつかその眼から白いしずくがはらはらとこぼれてきた。
「はて、なにを泣く。まだ堪忍がならぬか」と、忠通は彼女の涙に眼をつけて叱るように言った。
「唯今も申す通り、わたくしの堪忍はどのようにも致しまするが……」
「もう言うな。予のことは予に思案がある。その懸念には及ばぬことじゃ」
 顔の色はいよいよ蒼ざめて、忠通の眼の奥には決心の光りがひらめいた。
「但しこのことを余人に洩らすなよ」
「はあ」
 二人は再び眼をみあわせた。ゆうべに引き替えて、きょうはそより[#「そより」に傍点]とも風の吹かない日であった。散り残った花が時どきに静かに落ちて、どこやらで鶯の声がきこえた。
 その日の午《ひる》過ぎに、忠通は桂の里から屋形へ帰った。きのうの接待に疲れたといって、彼は人払いをしてひと間に引き籠っていたが、点燈《ひともし》ごろになって少納言信西を召された。大方はいつもの歌物語であろうと気を許して、信西入道はゆるゆると支度して伺候すると、忠通は待ちかねたように彼を呼び入れて出逢った。入道がきのうの不参の詫びをしているのを耳にも入れないで、忠通は唐突《とうとつ》に言い出した。
「早速じゃが、入道。頼長はこの頃もお身のもとへ出入りするかな」
「折りおりに見られまする」
「学問はいよいよ上達するか」
「驚くばかりの御上達で、この頃ではいずれが師匠やら弟子やら、信西|甚《はなは》だ面目もござりませぬ」
 信西はすこしゆがんだ唇をほどいて[#底本では「ほどいで」と誤記]ほほえんだが、聴く人はにっこりともしなかった。
「調達《ちょうだ》は八万蔵をそらんじながら遂に奈落に堕《お》ちたという。いかに学問ばかり秀《ひい》でようとも、根本のこころざしが邪道《よこしま》にねじけておっては詮ない。かえって学問が身の禍いをなす例《ためし》もある。予が見るところでは弟の頼長もそれじゃ。彼がお身のもとへ参ったら、この上に学問無用と意見おしやれ」
 善悪にかかわらず、うかつに返事をしないのが信西の癖であった。彼は今夜もしばらく黙って考えているので、忠通はすこし急《せ》いた。
「弟子を見ることは師に如《し》かずといえば、彼の人となりはお身も大かた存じておろう。彼は才智に慢ずる癖がある。この上に学問させたら、彼はいよいよ才学に誇って、果ては天魔《てんま》に魅《みい》られて何事を仕いだそうも知れまい。学問はやめいと言うてくれ。しかと頼んだぞ」
 実をいえば、信西も頼長に対してそういう懸念がないでもなかった。才学非凡で、しかも精悍《せいかん》の気に満ちている頼長の前途を、彼もすこしく不安に感じているのであった。この意味に於いては、彼も忠通の意見に一致していた。しかし今夜の忠通の口吻《くちぶり》は、弟の行く末を思う親身の温かい人情から溢れ出たらしく聞こえなかった。
 兄弟の不和――それから出発して来た兄の憤恚《いかり》であるらしいことを、古入道の信西は早くも看《み》て取った。
「仰せ一いち御道理《ごもっとも》にうけたまわり申した。それがしよりもよくよく御意見申そうなれど、あれほど御執心の学問をやめいとは……」
「申されぬか」
 相手は眼を薄くとじたままで、やはり否とも応ともはっきりとした返事をあたえないので、忠通はいよいよ焦《じ》れ出して、彼が天魔に魅《みい》られているという現在の証拠を相手の前に叩き付けようとした。
「入道はまだ知るまい。頼長はこの兄を押し傾けようと内々に巧《たく》んでいるのじゃ」
「よもや左様な儀は……」と、信西はすぐに打ち消した。
「いや、証人がある。彼が口から確かに言うたのじゃ」
 余人に洩らすなと口止めをしたのを忘れたように、忠通自身がその秘密をあばいた。
「その証人は……」
 相手のおちついているのが、忠通には小面《こづら》が憎いように見えた。
「証人は玉藻じゃ。彼はきのう玉藻に猥りがましゅう戯れて、あまつさえそのようなことを憚りもなしに口走ったのじゃ」
「ほう、玉藻が……」
 信西のひとみは忠通と同じように鋭く晃《ひか》った。

    二

 それから二日経って、玉藻のもとへ左少弁兼輔の使いが来た。彼はこのあいだの約束を果たすために、あすは法性寺へ誘いあわせて詣ろうというのであった。玉藻は承知の返し文《ぶみ》をかいた。そのあくる日、彼女は主人の許しを受けて、兼輔と一緒に法性寺へ参詣した。
 その日は薄く陰っていて、眠たいような空の下に大きい寺の甍《いらか》が高く聳えていた。門をくぐると、長い石だたみのところどころに白い花がこぼれて、二、三羽の鳩がその花びらをついばむよう
前へ 次へ
全72ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング