嵐の名残りで、庭は見渡すかぎり一面に白い花びらを散り敷いていた。
「神ほとけも見そなわせ、わたくし誓って偽りは申し上げませぬ」と、玉藻は涙ぐんだ美しい眼をあげて、主人の顔色をぬすむようにうかがった。
「日ごろから器量自慢の頼長めじゃ。それほどのこと言い兼ねまい」
 忠通はわざと落ち着いた声で言った。しかもその語尾は抑え切れない憤恚《いかり》にふるえているのが、玉藻にはよく判っているらしかった。二人の話はしばらく途切れた。
 忠通もゆうべはこの別荘に酔い伏して、賓客たちが大方退散した頃にようように重い頭を起こしたのであった。酔いのまだ醒めない彼は、玉藻の給仕で少しばかりの粥をすすって、香炉に匂いの高い香をたかせて、その匂いを快《こころよ》く嗅ぎながら再びうとうとと夢心地になろうとする時、彼は玉藻にその夢を揺すられて、思いも寄らない訴えを聞かされた。それは花の宴もたけなわなるきのうの夕方の出来事で、玉藻が川端に立って散り浮く花をながめていると、そこへ主人の弟の左大臣頼長が来た。彼は酔っているらしく見えなかったが、玉藻をとらえてざれごとを二つ三つ言った。相手は主人の弟で、殿上でも当時ならぶ方のない頼長である。さすがに情《すげ》なく突き放して逃げるわけにもいかないので、玉藻もよいほどにあしらっていると、頼長はいよいよ図に乗って、ほとんど手籠めにも仕兼ねまじいほどのみだらな振舞いに及んだ。
「それだけならば、わたくし一人のこと、どのようにも堪忍もなりまするが……」と、玉藻は口惜し涙をすすり込むようにして訴えた。
 彼女に対して無礼を働いたばかりでなく、頼長は誇り顔《が》に、こんなことを口走ったというのである。兄の忠通は天下の宰相たるべき器《うつわ》でない。彼は単に一個の柔弱な歌詠みに過ぎない。今でこそ氏《うじ》の長者などと誇っているが、やがてはこの頼長に蹴落とされて、天下の権勢を奪わるるのは知れてある。彼の建立《こんりゅう》した法性寺は、彼自身が最後のかくれ家であろう。そのように影のうすい兄忠通に奉仕していて何となる。立ち寄らば大樹の蔭という諺もあるに、なぜおれの心に従わぬぞ。兄を見捨てよ、おれに靡《なび》けと、頼長は聞くに堪えないような侮蔑と呪詛《じゅそ》とを兄の上に投げ付けて、しいて玉藻を自分の手にもぎ取ろうとしたのであった。
 仲のよい兄弟のあいだでも、これだけの訴えを聞けば決していい心持はしない。まして忠通と頼長とはその性格の相違から、うわべはともあれ、内心はたがいに睦まじい仲ではなかった。頼長が兄を文弱と軽しめていることは、忠通の耳に薄々洩れきこえていた。自分が氏の長者となったに就いては、器量自慢の頼長が或いは妬んでいるかもしれないという邪推もあった。きのうの饗宴にもすねたような風をみせて、碌々に興も尽くさずに中座したということも、忠通としては面白くなかった。それらの事情が畳まっているところへ、寵愛の玉藻からこの訴えを聞いたのである。忠通はもうそれを疑う余地はなかった。
「憎い奴」
 彼は腹のなかで弟を罵った。酔いの醒めない頭はぐらぐらして、烏帽子を着ているに堪えないほどに重くなってきた。現在の兄を蹴落としておのれがその位に押し直ろうとする、それが免しがたい第一の罪である。兄が寵愛の女を奪っておのれが心のままにしようとする、それが免しがたい第二の罪である。自体が温和な人でも、この憤りをおさえるのは余程むずかしそうに思われるのに、ましてこの頃はだんだんに志がおごって、疳癖《かんぺき》の募ってきたのが著しく眼に立つ折柄《おりから》である。忠通の胸は憤怒《ふんぬ》に焼けただれた。しかし彼が現在の位地《いち》として、さすがに一人の侍女《こしもと》の訴えを楯にして表向きに頼長を取りひしぐわけにもいかないのを知っているので、彼はあふるるばかりの無念をこらえて、しばらく時節を待つよりほかはなかった。
 やがて彼は玉藻をなだめるように言った。
「頼長めの憎いは重々じゃが、氏の長者ともあるべき我々が兄弟《けいてい》墻《かき》にせめぐは頼長のきこえが忌々《いまいま》しい。そちをなぶったも酒席の戯れじゃと思うて堪忍せい。予もしばらくはこらえて、彼が本心を見届けようぞ」
 玉藻をなだめるのは彼自身をなだめるのである。忠通はしいて寂しい笑顔をつくって、うつむいている女の黒髪を眺めていた。
「わたくしの堪忍はどのようにも致しまする。ただ、左大臣殿が、かりにも上《かみ》を凌ぐようなおん企てを懐かせられまするようなれば……」
「いや、その懸念は無用じゃ。彼は予を文弱と侮っているとか申すが、忠通は藤原氏の長者じゃ。忠通は関白じゃ。彼らがいかにあせり狂うたとて、予を傾けようなどとは及ばぬことじゃ。なんの彼らが……」
 忠通は調子のはずれた神経的の声を立てた。そう
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