に勝《すぐ》れないでのう」と、忠通は烏帽子のひたいを重そうに押さえた。「きょうわざわざ召したはほかでもない。お身と忠通とは年ごろの馴染みじゃ。打ちあけて少しく申し談じたい儀があって……。近う寄られい」
 それは玉藻を采女に推薦《すいせん》する内儀であった。師道にももちろん異存はなかった。
「至極《しごく》の儀、わたくしも然るびょう存じ申す。当時関白殿下の御威勢を以って、彼女《かれ》を采女にすすめ奉るに、誰も故障申し立つべきようもござりますまい」
「いや、そこじゃて」と、忠通は悩ましげに頭《かしら》をかたむけた。「お身の言わるる通り、忠通の威勢を以って彼女《かれ》を申し勧むるに、なんの故障はない筈じゃが、高き木は風に傷めらるるとやらで、この頃の忠通には眼にみえぬ敵が多い。いや、ひがみでない、忠通はたしかにそう見ておる。就いては玉藻の儀も何かとさえぎって邪魔するやからがないとも限らぬ。まず第一には弟の頼長めじゃ。次には信西入道、彼もこのごろは弟めの襟もとに付いて、ややもすれば予に楯を突こうとする、けしからぬ古入道じゃ。まだそのほかにも数え立てたら幾人もあろう。うわべはさりげのう見せかけて、心の底には忠通を押し傾けようと企んでいるやからが、殿上には充ち満ちておる。お身はまだ知らぬか」
 忠通と頼長、この兄弟の不和は師道も薄うす知らないでもなかったが、忠通の敵が殿上に充ち満ちているなどとはちっとも思い寄らないことで、それは恐らく彼のひがみであろうと思った。自体関白の様子は昔とよほど変わっている。質素な人物がだんだんに驕奢に長じてきた。温厚な人物がだんだん疳癖《かんぺき》の強いわがままな性質に変わってきた。殊にこの頃は病いに垂れ籠めているので、疳癖はいよいよ昂《たか》ぶって、あらぬことにも心を狂わすのであろう。それに逆らっては好くないと考えたので、師道は素直に彼の言うことを聴いていた。
「それじゃに因《よ》って、玉藻の儀もこの忠通の口から申しいづると、きっと邪魔するやからがある。就いては大納言、お身から好《よ》いように申し立ててはたもるまいか。お身は初めて玉藻を見いだした御仁じゃ。そのお身から申し勧むるに於いては、誰も表立ってさえぎる者もあるまい。どうじゃ。頼まれておくりゃれぬか」と、忠通は重ねて言った。
 時の関白藤原忠通卿が詞《ことば》をさげて頼むのである。師道はこれに対して故障をいうべきようもなかった。まして、自分は年来その恩顧《おんこ》を受けている。玉藻を彼に推薦したのも自分である。これらの関係上、師道はどうしてもこの頼みを断わるわけにはいかない破目になっているので、彼はやはり素直に承知した。
「御懇《ぎょこん》の御意《ぎょい》、委細心得申した。あすにも参内《さんだい》して、万事よろしゅう執奏《しっそう》の儀を……」
「おお、取り計ろうてたもるか」と、忠通は子供のように身体をゆすって喜んだ。
 いろいろの打ち合わせをして、師道はやがて関白の前をさがると、入れ代って玉藻が召し出された。忠通は笑《え》ましげに彼女に言い聞かせた。
「万事は大納言が受け合うてくれた。心安う思え」
「ありがとうござりまする」と、玉藻も晴れやかな眼をして会釈した。
 雨はその日の夕方からひとしきり降りやんで、鼠色の雲が一枚ずつ剥《は》げてゆくように明るくなった。その明るい大空の上には赤い星が三つ四つ光っていた。この時代の習いで、亥《い》の刻頃(午後十時)には広い屋形の内もみな寝静まって、庭の植え込みでは時どきに若葉のしずくのこぼれ落ちる音がきこえた。今夜は蛙も鳴かなかった。
 女《め》の童《わらわ》の小雪というのが眼をさまして厠《かわや》へ立った。彼女は紙燭《しそく》をともして長い廊下を伝ってゆくと、紙燭の火は風もないのにふっと消えた。それと同時に暗い行く手に明るい光りが浮き出して、七、八|間《けん》ほど先きを静かに動いてゆくのを見たので、年の若い小雪はぎょっとして立ちすくんだ。光りのぬしは女であった。女は長い袴の裳《すそ》をひいて、廊下を静かに歩んでゆく。そのうしろ姿が玉藻によく似ていると思ううちに、廊下の隅にある一枚の雨戸が音もなしにするりと明いて、女の姿は消えるように庭へぬけ出した。小雪は一種の好奇心にうながされて、これも足音をぬすんでそのあとからそっと庭に降り立つと、玉藻に似た姿は植え込みの間をくぐって行って、奥庭の大きい池の汀《みぎわ》にすっくと立った。
 池は年を経て、その水は蒼黒く淀んでいるのが、この頃の雨に嵩《かさ》を増して、濁った暗い色が汀までひたひたと押し寄せていた。あやめや、かきつばたはその濁った波に沈んで、わずかに藻《も》の花だけが薄白く浮かんでいるのが、星明かりにぼんやりと見えた。女はまず北に向かって一つの大きい星を拝した。ほかの
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