部庄司蔵人行綱の娘であると言い聞かされて、信西はまた眉を皺めた。彼は蔵人行綱の名を記憶していなかった。自分の記憶に残っていないくらいであるから、行綱の人物も大抵知れてあるように思われた。その行綱がこれほどの才女を生み出したというのは、世にも珍しいことである。彼もその藻という乙女をひと目見たいと思った。
「では、その乙女をきょう召されましたか」
「大納言のことばによれば、世にたぐいないかとも思わるるほどの美しい乙女じゃそうな。一度逢うて見たいと思うて、きょう呼び寄せた。もうやがて参るであろうよ」
幾分か優柔という批難こそあれ、忠通は当代の殿上人《てんじょうびと》のうちでも気品の高い、心ばえの清らかな、まことに天下の宰相《さいしょう》として恥ずかしからぬ人物であった。彼は色を好まなかった。年ももう四十に近い。美しい乙女ということばが彼の口から出ても、それが何のけしからぬ意味をも含んでいないことは相手にもよく判っていた。客もあるじも十六夜《いざよい》の月を待つような、風流なのびやかな、さりとて一種の待ちわびしいような心持で、その美しい乙女のあらわれて来るのを待っていた。
「藻が伺候つかまつりました。すぐに召されまするか」
織部清治は来客の手前を憚って、主人の顔色をうかがいながらそっと訊くと、忠通はすぐに通せと言った。やがて清治に案内されて、藻は庭さきにはいって来た。
ここは北の対屋《たいのや》の東の庭であった。午《ひる》すぎの明るい日は建物の大きい影を斜めに地に落として、その影のとどかない築山のすそには薄紅い幾株かの楓《もみじ》が低く繁って、暮れゆく秋を春日絵《かすがえ》のようにいろどっていた。藻はその背景の前に小さくうずくまって、うやうやしく土に手をついた。
「いや、苦しゅうない。これへ召しのぼせて藁蓐《わらうだ》をあたえい」と、忠通はあごで招いた。
清治は心得て、藻を縁にのぼらせた。そうして藁の円座を敷かせようとしたが、藻は辞退して板縁の上に行儀よくかしこまった。
「予は忠通じゃ。そちは前《さき》の蔵人坂部庄司の娘、藻と申すか」と、忠通は向き直って声をかけた。
「仰せの通り、坂部行綱のむすめ藻、初めてお目見得つかまつりまする」
彼女は謹んで答えると、信西も軽く会釈した。
「わしは少納言信西じゃ」
「遠慮はない。おもてをあげて見せい」
関白に再び声をかけられ
前へ
次へ
全143ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング