の別れという歌を広く世間から召し募らるる。そなたもその歌を奉ろうとか。奇特《きどく》のことじゃ。しばらく待て」
もう一度美しい乙女の顔をのぞいて、彼は奥へはいった。柳の葉が乙女の上に又はらはらと降りかかって来た。しばらく待たせて青侍は再び出て来て優しく言った。
「殿が逢おうと仰《おっ》しゃる。子細《しさい》ない、すぐに通れ」
案内されて、藻は奥の書院めいたひと間へ通された。どこからか柔かい香《こう》の匂いが流れて来て、在所《ざいしょ》育ちの藻はおのずと行儀を正さなければならなかった。あるじの大納言師道卿は彼女と親しく向かい合って坐った。敷島の道には上下の隔てもないという優しい公家気質《くげかたぎ》から、大納言はこの賤の女にむかっても物柔らかに会釈《えしゃく》した。
「聞けば独り寝の別れの歌を披露しようとて参ったとか。堂上《どうじょう》でも地下《じげ》でも身分は論ぜぬ。ただ良《よ》い歌を奉ればよいのじゃ。名は藻とか聞いたが、父母《ちちはは》はいずこの何という者じゃな」
「父は……」と、言いかけて藻はすこしためらった。
しばらく待っていても次の句が容易に出て来ないので、師道は催促するように訊いた。
「身分は論ぜぬと申しながら、いらぬ詮議をするかとも思おうが、これは関白殿下の御覧に入るる歌じゃ。一応は詠人《よみびと》の身分を詮議し置かないでは、わしの役目が立たぬ。父は誰であれ、母は何者であれ、恥ずるに及ばぬ。憚るにおよばぬ。ただ、正直に名乗ってくるればよいのじゃ」
「母はもうこの世におりませぬ。父の名をあからさまに申し上げませいでは、歌の御披露はかないませぬか」と藻は聞き返した。
「かなわぬと申すではないが、まずおのれの身分を名乗って、それから改めて披露を頼むというがひと通りの筋道じゃ。父の名は申されぬか」
「はい」
「なぜ言われぬ。不思議じゃのう」と、師道はほほえんだ。「ははあ、聞こえた。父の名をさきに申し立てて、もしその歌が無下《むげ》に拙《つたな》いときには、家《いえ》の恥辱になると思うてか。年端《としは》のゆかぬ女子《おなご》としては無理もない遠慮じゃ。よい、よい。さらばわしも今は詮議すまい。何者の子とも知れぬ藻という女子を相手にして、その歌というのを見て取らそう。料紙《りょうし》か短冊《たんざく》にでもしたためてまいったか」
「いえ、料紙も短冊も持参いたし
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