の煙りのなかから、藻に似た女の顔が白くかがやいて見えた。
「射よ」と老人は鞭《むち》をあげて指図した。
無数の征矢《そや》は煙りを目がけて飛んだ。女は下界《げかい》をみおろして冷笑《あざわら》うように、高く高く宙を舞って行った。千枝松はおそろしかった。それと同時に、言い知れない悲しさが胸に迫ってきて、彼は思わず声をあげて泣いた。
不思議な夢はこれで醒めた。
あくる朝になっても千枝松は寝床を離れることが出来なかった。ゆうべ不思議な夢におそわれたせいか、彼は悪寒《さむけ》がして頭が痛んだ。叔父や叔母は夜露にあたって冷えたのであろうと言った。叔母は薬を煎《せん》じてくれた。千枝松はその薬湯《やくとう》をすすったばかりで、粥《かゆ》も喉には通らなかった。
「藻はどうしたか」
彼はしきりにそれを案じていながらも、意地の悪い病いにおさえ付けられて、いくらもがいても起きることが出来なかった。叔母も起きてはならないと戒《いまし》めた。それから五日ばかりの間、彼は病いの床に封じ込められて、藻の身の上にも、世間の上にも、どんな事件が起こっているか、なんにも知らなかった。
三
碧《あお》い空は静かに高く澄んでいるが、その高い空から急に冬らしい尖った風が吹きおろして来て、柳の影はきのうにくらべると俄に痩せたように見えた。大納言|師道《もろみち》卿の屋形《やかた》の築地《ついじ》の外にも、その柳の葉が白く散っていた。
ひとりの美しい乙女《おとめ》が屋形の四足門《よつあしもん》の前に立って案内を乞うた。
「山科郷にわびしゅう暮らす藻《みくず》という賤《しず》の女《め》でござります。殿にお目見得《めみえ》を願いとうて参じました」
取次ぎの青侍《あおざむらい》は卑しむような眼をして、この貧しげな乙女の姿をじろりと睨《ね》めた。しかもその睨めた眼はだんだんにとろけて、彼は息をのんで乙女の美しい顔を穴のあく程に見つめていた。藻はかさねて言った。
「承りますれば、関白さまの御沙汰として、独り寝の別れというお歌を召さるるとやら。不束《ふつつか》ながらわたくしも腰折れ一首詠み出《い》でましたれば、御覧に入《い》りょうと存じまして……」
彼女は恥ずかしそうに少しく顔を染めた。青侍は我に返ったようにうなずいた。
「おお、そうじゃ。関白殿下の御沙汰によって、当屋形の大納言殿には独り寝
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