にすべって転んだのがもとで、それからどっと床に就くようにならしゃれた。三年坂でころんだものは、三年生きぬと聞いている」と、藻の声はうるんでいた。
 邪魔な梢の多いところを出離れたので、月はまた明かるい光りを二人の上に投げた。玉のような藻の頬には糸を引いた涙が白くひかっていた。千枝松は又すぐに打ち消した。
「三年坂というのは嘘じゃ。ありゃ産寧坂というのじゃ。ころんだとて、つまずいたとて、はは、何があろうかい」
 むぞうさに言い破られて、藻はまた口を結んでしまった。二人は山科《やましな》の方をさして夜の野路を急いで行った。いったんは男らしく強そうに言ったものの、少年の胸の奥にも三年坂の不安が微かに宿っていた。
「お前の父御《ててご》の病気も長いことじゃ。きょうでもう幾日になるかのう」と、彼は歩きながら訊いた。
「もうやがて半年じゃ。どうなることやら、心細いでのう」
「医師《くすし》はなんと言わしゃれた」
「貧に暮らす者の悲しさは、医師もこの頃は碌《ろく》ろくに見舞うて下さらぬ」と、藻は袖を眼にあてた。「まだそればかりでない。父さまが長のわずらいで、家《うち》じゅうのあるほどの物はもうみんな売り尽くしてしもうた。秋はもう末になる。北山しぐれがやがて降り出すようになったら、わたしら親子は凍《こご》えて死ぬか。飢えて死ぬか。それを思うと、ほんに悲しい。きのうも隣りの陶器師《すえものつくり》の婆どのが見えられて、いっそ江口《えぐち》とやらの遊女に身を沈めてはどうじゃ。煩《わずろ》うている父御ひとりを心安う過ごさせることも出来ようぞと、親切にいうて下されたが……」
「陶器師の婆めがそのようなことを教えたか」と、千枝松は驚きと憤りとに、声をふるわせた。「して、お前はなんと言うた」
「なんとも言いはせぬ。ただ黙って聴いていたばかりじゃ」
「重ねてそのようなことを言うたら、すぐわしに知らしてくれ、あの婆《ばば》めが店さきへ石塊《いしくれ》なと打ち込んで、新しい壺の三つ四つも微塵《みじん》に打ち砕いてくるるわ」
 罵《ののし》る権幕があまりに激しいので、藻はなにやら心もとなくなった。彼女はなだめるように男に言った。
「わたしらの難儀を見かねて、あの婆どのは親切に言うてくれたのじゃ」
「なにが親切か」と、千枝松は冷笑《あざわら》った。「あの疫病《やくびょう》婆め。ひとの難儀に付け込んでいろ
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